空の上と下


「どうした?」

 声を掛けられて、アジェルは視線を空から正面に戻した。
 目の前にいたのは、たった今声をかけてきたエフィーで、柔らかな茶色の髪を風に遊ばせながら不思議そうにこちらを見ている。

「いや、何でもない。久しぶりに綺麗な空だなって思っただけ」

「へぇ。確かに、セルゲナ樹海からじゃこんな空見えないもんな」

「まあね。それに良く晴れてて、気持ち良いし」

 さぁっと緩やかな風が流れて、二人の髪を撫で付ける。カラッと晴れ渡る空のもと、気温は暑くも無ければ寒くも無く、穏やかで心休まる一時と言えた。
 がたがたと不安定に揺れる乗り物の中で、比較的人の少ない後ろに腰掛けている二人は、ぼんやりと空を見上げる。話をするわけでもなく、空に魅入られたようにぼんやりと視線を外へとやっていた。それは、どこか話題を逸らしているようにも見えた。
 アジェルとエフィーは十数人の屈強な男達が同乗している馬車に揺られていた。
 事の始まりは、陰鬱なセルゲナ樹海を出て、真っ直ぐにラキアへの道を歩いていた時の事だ。別の街道から来たのであろう、大型の馬車が三台ほど通りかかった。貨物でも運んでいるのだろうと、遠目に見ていたエフィー達は、そのすぐ後に馬車が自分たちの目の前で急停車した事に驚いた。
 そして、ラキアへ向かう馬車だから乗れと言われ、無料だと言う事を三度確認してから乗車した。タダで楽していけるのなら、それに越した事は無い。上手い話には裏がある、とは良く言う言葉ではあるけれど、エフィー達は誰も深く考えなかった。のどかに走る馬車にすっかりと落ち着いていた二人は、それでも段々と増える乗客達に僅かな不安が生まれた。
 初めのうちに気付くべきだったのだ。考えてみれば、初めにかなりおかしな節があったのだから。
 まずラーフォスとジュリアは二台目の馬車に乗せられた。何故かと尋ねると、返って来た理由は「当然だろう」と一言で流され、エフィーとアジェルは一番先頭を行く馬車に乗るよう言われた。
 てっきり、一台目がエフィーとアジェルを乗せた所で満員になってしまうのかと思い、それに大人しく従った。
 けれど、馬車の中はスカスカとは言わなくても、それなりには広く、まだまだ乗れそうな感じだった。馬車の後方にある大きく開いた出入り口から見える二台目の馬車も、やはり満員とは程遠い感じだった。ただ、二台目の馬車の乗客が、明らかにエフィー達の馬車と雰囲気が違うので、何処と無く考えてしまうのだ。そう、二台目の馬車には女が多く、どこか術師的な雰囲気を持つ者ばかりなのだ。ラーフォスもジュリアも、魔術を扱う事が出来る人間だ。そして、エフィーとアジェルは術を操る事が出来ない。否、魔術が使えない組みだ。
 エフィーは視線を空から馬車の中に移し、小さく溜息を吐いた。二台目の馬車とは違い、こちらの馬車内は一言で言うと、男くさい空間と言える。どう見ても、屈強な筋肉隆々の男たちばかりなのだ。恐らくこの馬車の中で一番歳若いのはエフィーだと断言できるだろう。エルフであるアジェルはかなり浮いているようにも見える。見た目で判断するのならば、アジェルは二台目の馬車に乗せられていそうな感じがする。だが、今ここにエフィーと共にいる。それは、アジェルが術師では無いと見抜かれているのだろうか?
 全て憶測に過ぎないけれど、あながち間違ってはいない気もした。現に、次々と乗り込んでくる男たちは、やはり傭兵風の戦士ばかりなのだ。

「エフィー、ジュリア見つかった?」

 独特の熱気を放つ男たちに囲まれて気分でも害しているのか、アジェルは普段よりも低い声色で隣のエフィーに問い掛けた。

「まだ。ラーフォスらしいのは見えるけど」

エフィーは必死に目を凝らして見える範囲の馬車の中を覗こうとする。けれど大柄な御者に視界は遮られ、見えるのは乗っている客の一部だけで、辛うじてラーフォスらしい影がちらつくだけだ。背の低いジュリアを見つける事は出来なかった。

「まさかとは思うけど、ラキアの傭兵護送用の馬車に乗ったんじゃないよな?」

 アジェルは、エフィーが思っていた不安の元凶を、ものの見事に言い当てた。エフィーもそんな気がしてならなかったのだ。何故か乗ってくる人々は皆武器を持ち、明らかに普通の旅人のようには見えない者達ばかりだ。賞金稼ぎと思われる者、生粋の傭兵だと判断できる者、挙句に盗賊のような者までいる。それは決して普通の旅人などではなく、まるで募った傭兵軍の様だ。
 その中で、エフィーとアジェルは完全に浮いていた。辛うじて背に剣を差しているエフィーはともかく、アジェルは見た目丸腰だ。それでも、エルフだから、と思われているのかもしれない。

「はは、まさか。そんな訳無いよ。だって、僕ら傭兵じゃないし」

 嫌な考えを否定して、エフィーは頭を軽く振った。それでも、言葉にされた不安は、津波のようにこれからの展開を、――本人の思いとは相反して、妙にリアルに浮ばせながら、よりエフィーの考えを暗いほうへと導いていく。
 そして不安を言い当てた本人は、辺りを疑り深く観察するように見回していた。

「厄介事はもう懲り懲りだよ。間に合わなくなる前に、さっさとこの馬車を降りよう」

「でも、ジュリア達にもその事を伝えないといけないじゃないか。それに……」

 言いかけた言葉を飲み込んで、エフィーは少し離れた場所に密集している男達の視線を不審に思い、隣のエルフを肘で小突いて気付かせる。先程から気になってはいたのだけれど、男達の視線はちらりと二人を捕らえている事が多い。初めは気のせいだと思っていたのだけれど、それでも何度も目が合う男たちに少しばかりうんざりしながら、それと共に嫌な事を思い起こさせる。
 彼らの視線は、まるで異端のものを見るような目。
 そう、エフィーの翼を目の当たりにしたデューベルの盗賊達の好奇心と驚愕が織り交ざった、決して善意ではない視線。それを向けられているのはエフィーなのか、はたまたアジェルなのかは分からない。この世界では二人とも異端と言う言葉が不思議なほど似合うのだから。
 エフィーは人にあらざる白き翼を背に持ち、空を舞う一族だ。人と違う種族であるので異端と言えば異端だろう。けれどそれは本人の意思で背に隠す事が出来るし、翼を消している時は普通の人と変わらない。少なくともエフィーはそう思っている。人並みの外見である自分が、あえて視線を集めるはずは無い。
 なら、隣のエルフは?
 エルフはこの世界にも存在しているようで、然程物珍しげに視線にさらされる事は無い。人よりも優れた美しく繊細な姿も、その種族ならば当然だと一種の暗黙の了解がある。むさくるしい男達の密集するこの馬車の中ではそれりに目立ちはするが、それでもこれほどの視線を集めるには少々無理がある気がする。なら、普通ではないその髪色のせいだろうか? 始めて見た時、エフィーも驚いた。その硝子のような光に反射すると紫がかった銀に見える、鮮やかな髪色は十分目立つ。それでも、見慣れてしまえばそれほど気になる訳ではなく、エフィーの感想は只単に「綺麗だな」くらいだ。珍しくても、執着するには無理がある。
 それ以上、何か珍しく見えるものは無く、それでも投げつけられる視線はやはり居心地が良いものではない。

「何だかなぁ……。アジェルの言うとおり、今回は早めに下りた方が良いかもな。本格的に嫌な感じだし」

「じゃあ、馬車を止めてもらわないと。御者の所まで行ってきなよ」

「思いついたのはアジェルだろ? だったらアジェルが行けば良いじゃないか」

「嫌だね。あの中を通りたくない」

 アジェルは顎で馬車の前方までのそう長くは無い道のりの間にあるものを差して嫌そうに眉宇を潜めた。
 そこには、実際はそんな事無いのだろうが、熱気を放っていそうな傭兵崩れの男達が密集しているのだ。
 つまり、あの間をすり抜けるのが嫌だと、そう言うことらしい。

「……僕だって嫌だよ」

 背に腹は変えられない。しかし、悲しい事に二人は自分が一番大切だ。我が身可愛さ故の意地の張り合いが展開されようとしたその時、二人の背後から聞き知らぬ声が投げかけられた。

「お二人さん……! ちょっとそこ退き?」

 咄嗟に二人は驚き、さっと振り返る。二人の後ろには外を見渡せる、ぽっかりと開いた出入り口しかないはずだ。風通しの良いその場所には、エフィーとアジェルしかい。と言うよりも、人が座れるスペースは無いのだ。二人はわざとその場に座り、周りから距離を置いていたのだから。
 二人の視線の先には、通ってきた道と、後ろに続く馬車が見える。そう、声の元凶は何も無いはずだった……。後ろに続く御者の驚きに満ち満ちた視線が、二人の視界のすぐ下に向けられ、不意に視線を落としたエフィーが、それを見つけてしまうまでは。
 そこには、必死に馬車の枠にしがみついて走る、見慣れぬ黒い影がいた――。






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