空の上と下


 見上げる空は青々としていて、曇りも憂鬱な気分も全て洗い流してくれるよう。
 吸い込まれそうな深い色合いは、彼の記憶に残る唯一の救いでもあった。そう、真っ青な雲一つ無い蒼穹の空を大好きだと言っていた亡き人が鮮明に思い出せるのだから。
 ぼんやりとそんな事を思い耽っていた少年は呆けたように笑った。
 先日、感傷的になるなと指摘されたばかりだというのに。
 少年、レイルはただ青々とした空を眺め続ける。
 潮風が鼻腔をくすぐり、引いては寄せる波の音が心地よい。
 レイルは風に遊ばれて落ちてきた白金の髪を長く尖った耳に引っ掛けた。それでも風が吹くたびに落ちてくるので、いい加減切り時かと思う。そんなに邪魔になるほど長い訳ではないが、決して短い訳でも無い。何となく、短すぎると落ち着かないので少しだけ伸ばしてはいるのだけれど。それに髪の色合いもついでに変えてしまおうかなどとも考える。レイルの本来の髪色は、普通の色合いではない。故に人々から異様なものを見るような視線が向けられ、それが嫌で魔術で色合いを変えて見せているのだ。今は、淡い金色に落ち着いている。
 ふと視線を真上から正面に移すと、そこには待ち続けた船があった。行き交う人々は出港近くの為、大慌てに右往左往していく。船乗りたちは貨物やら交易品を次々と船へと運び、旅人と見られる者達は船のチケットを確認しながら、未だ開放されない船への扉の前に行列を作っている。
 港町デューベルの、船の出港前にある極普通の光景だった。
 デューベルで定期船は月に二度出る。
 定期的とはいえ、月に二度同じ間隔を置いて出ているわけではない。一月の半ばあたりに二度連続して船は出る。先日乗るはずだった一度目の船は、レイルが出発直前にチケットを落としてしまった為見送る事になってしまった。本来ならば、己の持つ翼で大陸横断してしまう所なのだけれど、彼の連れるお荷物がそれを許してはくれなかった。
 仕方なく、次の船が出る一週間程度をだらだらと過ごし、ようやく待ちに待った日が来た。
 レイルに空を飛行しての大陸横断を禁じたお荷物は、最後に買い忘れたものがあるといって、商店の方へと去って行ってしまった。共に行っても良かったのだけれど、人ごみだらけの中へ消えていった連れを探すのも面倒だと思い、とりあえず船着場の倉庫に背を預けてぼんやりとしている訳だ。

「早くしろよ……」

 暇すぎて思わず愚痴も零れてしまう。この三年間、目的の無い旅は彼の気力を底まで削り落としてきたように思える。お陰で自他共に認めるほど彼の性格は少々捻くれているのは致し方ないのかもしれない。
 と、その時レイルの目の前を三人ほどの男達が巨大な荷物を必死に持ち上げて歩いて来た。
 何かの果物でも入っているようで、三人がかりで持ち上げられている籠は不安定に揺れていた。過ぎ去るのをぼんやりと眺めていると、地面の窪みに一人が足を引っ掛けて体のバランスを崩す。元々不安定だった籠は大きく揺れて、文字通り地面へとまっ逆さまにひっくり返った。悲痛な悲鳴に似た叫びが運ぶ男と転んだ少年の口から発せられた。

「馬鹿野郎!」

 三人のうち一際背の高い赤毛の男が転んだ少年を怒鳴りたてた。
 地面に落ちた籠は一度バウンドし、そのまま中身を辺りに撒き散らす。籠の中身はグレープフルーツか何かのようで、ころころと回転しながら煉瓦で舗装された道を転がる。少し離れた場所にいたレイルの元にも、いくつかの黄色い果物が転がってきた。

「んな事言ったって、しょうがないじゃねーか。それよりも速く拾わないと、またどやされるぜ?」

 転んでいないもう一人の青年が怒りに燃える赤毛を宥めるように言う。
 赤毛の男は仕方がなさそうに転がっていく果物たちを見た。軽く百は越えた黄色の丸い物はあちらこちらに散らばって行っていた。

「てめーのせいで落ちたんだから、全部拾え」

 赤毛の青年は転んですりむいた膝を抱えているまだ少年の域を出ない子供にそう言う。
 すると、子供は怒ったようにあからさまに嫌そうな顔をした。

「俺一人だと時間掛かるよ! だからラドックも手伝ってよ。それに速く運ばないと、また自警団に締められるよ?」

「うっせぇ。元々こうなったのは全部あの忌々しい連中のせいじゃねぇか! 何で盗賊がこんな風に真面目に仕事しなくちゃいけねぇんだよ!」

 ラドックと呼ばれた赤毛の男は、苛々とその頭を掻き毟る。

「働かないと牢屋で五年なんだから、働いて一年のほうが楽じゃないか。それにこうなったのはラドックが不甲斐ないからだろ!」

「あー、もう黙れ。とりあえず一つ残らずに拾うぞ!」

 無駄な言い争いに終止符を打ち、ラドック含める三人はばらばらに散った果物を籠に集め出した。
 そして、レイルの下に落ちていた果物にラドックが近付いて来たので、レイルは条件反射で拾い上げていた。もちろん、意地悪をするわけではなく、単に哀れだったから。果物をラドックに差し出すと、彼はそれに気付いて顔をあげた。

「悪りぃ……な……って?」

 レイルの顔を見るなり、ラドックは見る見るうちに青ざめていく。
 失礼だな、と内心毒づきながらレイルは自分の顔に何か付いているのかと思い、果物を差し出したのとは逆の手で顔に触れる。けれど何もついてはいない。

「何だよ? 俺の顔に何かついてるのか?」

「お前!」

 ラドックは慌てふためいたように驚き、レイルに指を突きつけて一歩後退した。
 その様にレイルは些か不機嫌に眉を潜める。
 幸か不幸かレイルはラドックの顔など全くもって知らない。記憶力は悪いほどでもないし、ある程度関わった人間の顔くらいは覚えているつもりだ。だが、はっきり言ってこの赤毛の青年には見覚えなど無かった。無駄な事など覚える必要は無いのだから。先日の灯台での事件も、綺麗さっぱりと記憶の欠片にすら残っていない。だからこそ、たまたま顔をあわせただけのラドックの事も知らない。ましてや、あの時は機嫌が悪かったので、灯台を破壊し、機嫌を良くした所ですぐに立ち去った。

「てめぇ! よくも俺たちを自警団に引き渡してくれたな!」

「はぁ?」

 ラドックは一週間ほど前の夜の事を思い出した。今ここにいる少年と同じ顔をしたエルフに、眠り効果のある香か何かを嗅がされて昏倒してしまい、気付けば自警団によって縄につながれていたのだ。おかげで出された条件のもと、日々真面目に働いてはいるものの、そろそろ限界だった。もともとこう言う仕事には不向きだ。好いてもいない。でなければ盗賊家業などしていなかっただろうから。
 対してレイルは状況の飲み込めない言葉に、必死に何かあったかと思い出そうとしてみた。それでも、ラドックに何か言われる覚えは無く、自警団などとも関わっていない。面識も何も無いのだから。

「とぼけるんじゃねぇ。こっちはしっかりと覚え……て何だよ?」

 勢いづいた言葉を言い切る前に、後ろから先程転んだ少年がラドックの肩を叩いた。そして小さく何かを耳打ちする。

「あ? 人違い? よく見ろ、こいつはあの時のエルフだろ。俺は間近で見たんだぜ」

「でもほら、髪の色が違う。確かに見た目はそっくりだけど」

 言われてみれば、とラドックはレイルの整った小綺麗な顔をしげしげと眺めた。それから髪の長さと色の違いに気付く。

「そうだな。確かにあいつは紫がかった銀髪だったな……。でも顔立ちはそっくりだ」

 ラドックの一言に、レイルは大きく動揺する。
 そして気付けばつかみ掛かる勢いで問い詰めていた。

「紫がかった銀髪だって!? おい、その事をもっと詳しく教えろ」

 聞き覚えのある単語。レイルの元々の髪色は、この青年が言ったような色合いだ。そして、顔がそっくりだったという事。それは予想もしていなかった微かな希望を呼び覚ます。
 信じられないと思う反面、やはり希望にすがり付いてしまいたくなるのが人の性というもので、レイルはラドックに詰め寄った。

「詳しくも何も……、お前と同じ顔をしたエルフがいたんだよ」

 間違いない。紫銀の髪を持つレイルと同じ顔をしているのは、世界に只一人だけ。
 死んだと知らされていた、レイルの片割れ。それ故に絶望していたのに、偶然に目に付いた青年からこのような言葉が聞けるとは。
 早まる気持ちを抑え、レイルはラドックに問い掛けた。

「そいつは何処に?」

 教えられれば今すぐにでも飛んでいきたい衝動に駆られるだろう。でも、そう思う一瞬すらも長く感じる。しかし、返って来た答えは意外とあっけないものだった。

「知らねぇ。んなもんこっちが教えて欲しいくらいだ。ま、この町に来たって事は船が目当てだろうな」

 レイルはとりあえず差し出した果物をラドックに押し付けた。そして、それ以上何かを聞くわけでなく、踵を返してその場から駆け出した。目指す場所はひとつ。船着場の端にある船のチケット売り場。
 売り場では身元を証明する為に、名前と出身地を書くことになっている。レイルと連れもそれぞれ名を記してきた。それならば、記録が残っているかもしれない。
 少しでも早く辿り着きたくて、ただレイルは無我夢中に走り続けた。






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