久遠の眠り


 全速力で駆け抜けて、探し続けた存在はあっけないほど簡単に見つかった。
 川辺に引き上げられた青年と、それを抱きかかえる形になっているエルフの少年。
 場は、静かだった。いつの間にか、雨は小降りになっていて、耳障りな雨音も聞こえはしない。川の流れる静かな音だけが、場を満たしていく。
 エフィーはそっと、二人に近寄った。

「……伝えておくよ。あんたのサリアに」

 少年は小さくそう呟いた。
 声色がいつもよりも沈んでいるのが、何処と無く分かった。エフィーに背を向けているため、どんな表情をしているかは分からないけれど、いつもよりも小さく見えるのはきっと気のせいではない。
 そして、アジェルの抱きかかえている青年は静かに瞳を閉じていた。眠っているだけのような穏やかな表情で――。

「ロディ?」

 まさか、遅かったのだろうか? 魔族の言っていた言葉は真実だったのか?
 様々な疑問が浮かんでは消えた。
 けれど、帰ってくる返事は無く、更に一歩エフィーは二人に近寄る。
 覗く事の出来たロディは、生気を全く感じさせない。浮かべる表情は酷く穏やかだと言うのに、何十年も眠り続けてきた人のように、どこか風化しているように見える。まるで、今にも消えてしまいそうな――。

「何が、あったんだ……?」

 答えは無い。ただ、静かな雨音だけがしとしとと場の空気を湿らせていく。
 不意に、エルフの抱く青年が光に包まれた気がした。
 目の錯覚かと思い、エフィーは何度か目を瞬く。けれど、それは幻覚でも錯覚でもなく、実際にロディの体は薄く透けるように光に包まれていた。
 ゆっくりと、彼の体は光の砂に変わり、空へと舞い上がる。行かせてはいけない気がして、エフィーはそれを掴もうと天へと手を伸ばす。それでも、光の砂はエフィーの手に触れる事も無く、さらさらと風に乗り夕闇の彼方へと消えていく。
 薄くぼんやりとロディアだったものは形を失い、やがて空へと消えていった。
 エフィーはどうして良いのか分からず、ただ呆然とロディアを連れ去った空を見つめる。
 再び、物寂しいほどの静寂が空気を凍らせた。

「……ロディは、もう死んでいたんだよ。何十年も昔にね。それでも消えない精霊への思いが、彼を現世に繋ぎとめてた。だけど、彼は自分が死んでいた事に気付いて、やっと本来戻るべき場所に還って行ったよ」

 ぽつりと、アジェルは呟く。
 彼にとって全ては夢の延長線上だったのかもしれない。けれど、それは終わりを告げた。
 彼の前に、偽りの精霊が現れたから。
 きっと、長すぎる時の中で、彼自身の魂は少しずつ疲弊していた。
 終わりの見えない、待ち続けるという行為に。
 だから、アジェルは彼に幻覚を見せた。彼の待ち続けていた人が、現れたかのように。エルフであるアジェルに、それは簡単な術だった。精霊に頼み、彼の視覚をほんの少しだけ歪ませたのだ。
 そして、彼は永劫の望みを叶え、空へと還っていった。
 けれど、心は晴れない。ロディの望みは昇華され、彼は思い残す事無く天へと昇ったのだろう。しかし、彼の想い人に救いはない。精霊は復讐と言う憎悪を胸に秘めて、彼を殺した者を呪いながら追ったのだろう。グレンジェナを取り戻すために。
 しかし、ロディが何十年も精霊を待ち続けていたにもかかわらず、彼女は帰らない。精霊は何らかの理由でロディの元に帰る事が出来なくなった。グレンジェナ奪還を果たせていたなら、精霊はロディの元にいち早く戻るはずだ。けれど何十年も音沙汰がないという事は、彼女もまた、ロディと同じく儚く散ったのかもしれない。
 しかし上級精霊の力は魔族をも凌ぐ。簡単に消えるような、可愛らしい存在ではない。
 上級精霊の力に対抗できるのは、魔界に封印された上級魔族か、または神と呼ばれる一族か――。
 考えるまでもない。
 グレンジェナを喉から手が出るほど欲している一族を、アジェルは知っている。

「ロディは死んでいた? そんな……だって、確かに僕らと話をして一緒に笑って、なのに……」

 信じられないとエフィーは現実を否定する。死んでいたなどと言われても、確かに彼はエフィーの前で生きていた。笑っていたではないか。
 それに、死んでいたのなら何故、二度目の死が訪れるのか。
 戸惑いを隠せず、エフィーは雑念を払うように頭を振った。

「そう、彼は生きていたつもりだった。でも、それは全て彼の強い残留思念の結晶だ」

 全ては偽りだった。
 その命も、肉体も、既に滅びていたはずのもの。

「ロディは……なんで死んだんだ?」

「グレンジェナを奪われた時に、負った傷でだと思う。グレンジェナは体と同化するもの。それを無理矢理奪う事は、持ち主を殺す事以外にありえないから……」

 つまり、彼は何者かに殺された。サリアが出て行ったのは、グレンジェナを取り戻すためだけではない。彼を殺した誰かを憎み、その敵を討つために精霊は彼の元を発ったのだろう。
 ロディの話に嘘は無かったけれど、彼は勘違いをしていた。
 死した記憶を偽って、全てが自らの思い込みによってつくられた話。

「そんな、一体誰がそんな事を……?」

 グレンジェナを欲していたのは一体誰か?
 人の命を奪ってまで手に入れる不老の命に、どれほどの価値があるのだろう?

「――神族。一番可能性があるのはね。ただの人間が上級精霊を出し抜けるとは思えないし、魔族だった場合、ロディの魂は喰われてるはずだ」

「嘘だ! 何でグレンジェナを神族が欲しがるんだよ? グレンジェナは、不老を約束する輝石なんだろ? 不死の神族に、一体何の価値があるんだって言うんだ?」

 そう、確かにグレンジェナは命の限り有る人にはとても貴重なものだ。代え難い宝と言えるだろう。けれど、神族は全てを超越した存在のはずだ。その彼らが、どんな理由でロディからグレンジェナを奪ったのか。ただのお遊びか、それとも何か別に理由があるのか。
 分からない。
 一つ言える事は、たとえ神族でもいたずらに命を奪う権利なんて無い。彼の大事な人が帰らないのは、神族に適うわけも無いから?
 サリアの行方は恐ろしくて考えたくもない。
 たとえ上級精霊でも、神の力の前ではあまりにも非力だ。

「ロディが神族に殺されたのは確かだよ。……黒きグレンジェナは、黒き神族の手にあるから」

「何で、そんな事知ってるんだよ?」

 聞いてはいけない気がした。エルフの口から神族の事を聞くと、どれが真実なのかわからなくなる。それでも、この少年が神族に縁がある者なのは確かで。だからこそ、知りたくない気がした。そう思った瞬間にはもう遅かったのだけれど。

「黒き神族、邪神ネルウィーが蒼き宝玉を欲していたから。邪神は古代神がグレンジェナを持っていると思って、村に来た事があるんだよ。その時に、黒きグレンジェナがあいつの右手に埋まっていたのを見たんだ」

 ――四つに砕け散った蒼き宝玉の涙。それから宝玉は力を失ったと言う。
 もし、その話が本当ならば、邪神は宝玉の力を取り戻すためにグレンジェナを集めているのだろうか?
 神話の上での物語。けれどそれは偽りだけではなく、かといって真実があるわけでもなく。
 不完全な神の、今現在も続く物語。
 アジェルの言っている事を全て鵜呑みにしている訳ではないけれど、それでも肯定する自分も確かに存在している。否定は、出来ない。それでも、込み上げる疑問に答えてくれる人は誰もいない。アジェルは、神族を憎んでいるのだから……。

「それじゃあ、ロディもサリアさんも……神族の問題に巻き込まれたのか?」

 あの魔族はほとんど関係ない。全ては過去から続く神々の因縁のもと、全てを少しずつ引き込み狂わせる。神と言う象徴ではなく、神と呼ばれる個別の存在がこの悲劇をもたらした?

「そう。だから、神族に関わると良くないことが起きる。エフィーだって……」

 紡がれた言葉は、そこで切れた。
 アジェルは何かを言おうとしていたらしいが、結局それ以上言葉は出てこなかった。
 エフィーは、アジェルが何を言いたいのか少しだけ分かった気がした。
 エフィーの父、フェイダ・ガートレン。古代神に関わり消息を絶った父は、今現在足跡すらも掴めない。そう、これは他人事ではないのだ。嫌な予感がして、それでも不吉すぎる考えを払うように軽く頭を振るうと、エフィーは何か言う言葉は無いかと必死に思考をめぐらせた。

「それでも、まだそれが事実かなんて分からない。僕は、自分で神族に会って確かめる」

 父の事。ロディの事。そして会った事も無い精霊の事。
 そして、エフィーに託されたこの額の輝石は一体何なのかも。
 まだ、自分の目で見たわけではない。耳で真実を知った訳ではない。だから――。

「僕は神界に行くよ」

 神話の中の、至高の一族が住まうとされる架空の世界へ。
 全てを知るために、自分のためにも行かなくてはいけない。そのためには、地上界最後の神族を探し出さなくてはいけない。
 今目前にいる、エルフの少年の弟だというレイルを、探さなくてはいけなのだ。

「……そう」

 返る言葉は短く、いつもの様に感情を抑えた声色。
 エフィーはそれ以上何も言おうとはしないで、ただ穏やかに笑っていた青年を悼んで、せめて彼が空で最愛の精霊と出会えることを願って祈りの言葉を心で繰り返した。
 見上げた空は、雨雲の隙間から光がさしていた。薄暗い夜明けが来たのだ。
 何処までも透きとおる空は、悲しいくらいに青々としていた。






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