久遠の眠り


 揺らめく水面が遠ざかり、深い闇の奥底へと引きずり込まれていく。
 手足に纏わりつくのは私怨と言う名の呪い。
 かつて、彼らが憎んでいた西の亡霊への遺恨が強く彼の足を引きずり、さらなる深みへと彼を導く。
 苦しくは無かった。決して心地よくも無いけれども。
 痛みも苦しみも何も無いのだ。感じるはずが無い。すでに感覚など無くなっているのだから。
 突然現れ、亡霊だの悪魔だの叫び、いきなり襲い掛かってきた村人たちは、無抵抗のロディを燃やそうと試みた。近所のアダート村についてはある程度の知識はあった。彼らは浄化の炎と呼ばれているもので、ロディを焼き殺そうとしていたのだ。けれど、炎はロディに届く事無く、まるで蝋燭の灯火のように弱々しく消え去ってしまう。ロディ自身にもなぜ、そうなるのかは分からなかったけれど。燃やせないと分かると、村人は川に沈めるという提案を出した。そして、重石を足にくくりつけられて、川に落とされた。冷たい水は肺にまで一気に入り込んできたけれど、何故か苦しくは無かった。魔術などを使った訳ではない。ただ、何にも感じなかったのだ。
(もしかしなくても、勘違いされていたのかな……?)
 確かにこの森に住まう、悪行の限りを尽くしていた魔族を封印した記憶は有る。もちろん、それはロディがやったわけではなく、彼の身を守ろうとした精霊がやったことだったのだけれども。彼女は精霊である身分上、魔族は好ましくない存在だったらしい。
(でも、それは随分昔の事だから、きっと昔話が拗れてしまっただけなのかもしれない)
 噂に尾びれがつくとは良く言うものだ。きっと、長すぎる年月の中で、若い村人たちは知らない真実と物語を混ぜて考えてしまったのだろう。そのせいか、村人を責める事はできない気がした。彼らもまた、被害者には変わりないのだから。
 ロディは冷たい水の中に深く沈み続ける事に、抵抗らしい抵抗はしなかった。ただぼんやりと遠ざかる水面を見上げた。
 不思議と落ち着いている。慌てても仕方が無いという事は分かっている。しかし、それだけでなく、彼自身死への恐怖などすでに無くなっていたのかもしれない。彼に残されていたのは、たった一人の精霊を待ち続ける永遠の時間。一つだけ望む、決して叶わない願い事。
(君にもう一度会いたいだけなのに……)
 思い出されるのは、彼女の去り行く後姿のみ。長い波打つ硝子のような紫銀の髪を風に靡かせて、復讐に燃える精霊は彼の言葉を聞かずに出て行ってしまった。けれど、彼女は必ず戻ると、そう言っていた。だからこそ、待ち続けることが出来た。長い長い、気の遠くなるような時間を、一人で過ごす事が出来たのだ。ただ、望みが叶う日を夢みて。
(ボクはグレンジェナがどうなろうと構わなかった。だって、君と共にいられれば、それだけで良かったんだ)
 決して多くは望まない。ロディにとって、サリアと言う精霊は唯一の存在であり、何者にも代え難い大切な人となっていた。父が死に、一人現世に残されたロディに、グレンジェナは重過ぎる枷でもあった。永遠ともいえる命、人とずれた時間軸に身をおく事。そして、蒼き神話で戦争を引き起こした物に関する輝石など、人間であるロディには重すぎたのかもしれない。それでも、長い時を生きてきて、初めて出会う事が出来た精霊。彼女との出会いに関しては、グレンジェナに感謝した。そして、普通の人よりも精霊と共に生きる事が出来る自分を嬉しくも思った。精霊には寿命が無い。故に寿命のある人間は精霊と同じ時間を共存できない。
 けれど、グレンジェナを持つロディはそういった世界の理すらも気にとめずに過ごす事が出来たのだ。
 だから、グレンジェナには感謝している。
 それでも、永遠の命を望んだ訳ではなかったのだ。ただ、サリアと共に過ごす時間さえあれば、それだけで構わなかった。奪われたグレンジェナに固執していたのは、きっとロディではなくサリアの方だ。グレンジェナを持たないロディは人と変わらず年を重ねる。彼女はそれを恐れたのかもしれない。だから、ロディの反対も聞かずに、輝石を奪った天上人を追ったのだろう。
(長い時が流れた。ボクはもう随分長く生きてきた気がする。君を待ち続けて、どれほどの時が立ったのだろう?)
 思い起こせば今でも鮮明に蘇る、全てを変えてしまった運命の一日。
 隣には優しく微笑んでいたサリアがいて、何をするでも無く二人で木に寄り掛かり、森林浴を楽しんでいた。お互いが近くに存在している事が嬉しくて、それだけで満足だった。時々思い出したように交わす言葉は、本当に他愛の無いものばかり。それでも、その一言一言が心に染みわたるように懐かしい。けれど幸せな時は永遠には続かなかった。
 突然現れたのは、招かれざる訪問者。自らを神と名乗る、黒い男だった。ぞっとするほど奇妙な雰囲気に包まれていたその人は、ロディの持つグレンジェナを欲していた。勿論、父から授かった大切なものに変わりなく、初めは男の望みを断った。けれど男は人として信じられない力を持っていた。
 一瞬の内に視界が暗闇に包まれて、抗いがたい瘴気と霧のような闇に押しつぶされそうになった。見えない視界の遠くで大切な人が叫んでいた。そして、不意に胸に刻まれていた輝石が抉り取られた。耐えがたい痛みを感じた。けれど、そこで記憶はいつも消える。その後はまた、幸せだった過去が繋がれる。途中、すっぽりと抜けてしまったような、白く霞みがかった記憶。
 それ以上は思い出せない。
 いや、思い出そうとしなかった。
 思い出せば、今の自分が否定されるようで、それは心の奥底で今も悲鳴をあげている真実。
(黒い男にグレンジェナを奪われ、そして――)
 そう、泣き叫ぶ精霊の声。
 透きとおる声は嘆きの言葉を呟き続ける。世界中何処を探しても決して見つける事は出来ないであろう、真珠色の涙をその白い頬に滑らせて。彼女は泣いていた。
 何故。何がそんなに悲しいのか。
 その時、何が起こったのか。
 曖昧な記憶は次第に集まり、穴だらけのパズルを埋める。
(忘れていたんじゃない。ボクは思い出すのが怖かったんだ)
 サリアが嘆いたのは、グレンジェナを失い倒れたロディを悼んでいたから。
 そう、今ここで深い水底に沈み続けていると言うのに、ロディの体は苦しみを感じていない。感じる訳が無いのだ。
 彼はもう、死んでいたのだから――。




 +




 薄れていた記憶が全て蘇る。
 そう、もうこの世界にロディア・クローズと言う名の青年は存在しない。
 全てを思い出し、ロディは薄く微笑んだ。
 彼は偽りの時間を過ごし続けてきた。長い長い時を、一人の精霊を待ちながら。仮初の肉体を持ち、都合の良いように記憶を捻じ曲げていた。そう思い込むほど、サリアへの想いは強かったのかもしれない。
 けれど偽りの時間は終わりを告げる。気付いてはいけない事に気付いてしまったから。もう、地上界には留まれない。彼には行くべき場所があるのだ。彼だけではない、命あるもの全てが行き着く命の輪廻の終焉。始まりと終わりが交わりしその場所へ、行かなくてはいけない。
 見上げた水面は光に満ちて、手を伸ばせば光に触れられる気がした。
 ロディはそっと己の右腕を遠ざかる水面に差し出した。
 あと少しで届きそうな光は、それでも届く事は無かった。少しずつ、抵抗する事をやめた体が川の奥底に沈み続ける。届かない光を見つめ、ロディは目を細めた。
(これで、終わりかな……?)
 もう二度目は無い。
 これが完全なる死。
 ふと、抜け落ちるような虚無感にロディはゆっくりと瞳を閉じた。
 けれど次の瞬間、天へと差し出した手に温もりをもつ何かが触れた。瞳を見開くと、白い腕がロディの手を必死に捕まえていた。細く、少し力を入れてしまえば簡単に手折る事が出来そうな白い腕。そして、光に透けた水面から硝子のような色彩がきらめいた。水の中でもはっきりと映える、鮮やかな紫銀の輝き。それは待ち人のもっとも目立つ特徴。
 ロディは光より差し出された腕を掴み返した。
 微かな希望を掴み取る思いで、その腕を取った。夢でも見ている気がした。全てが夢であるのならば、それ以上に嬉しい事はないのだろうけれど。

「ロディ……!」

 水上に引き上げられて、川岸まで引きずられ辿り着くと、ロディは手を引く人物を見た。
 そこにいたのは、彼が待ち続けてきた人。永劫望む、精霊。
 長い紫銀の髪と、菫色の瞳を持つ鮮やかな大地の精霊。

「――サリア?」

 幻だろうか。一瞬そう思うが、精霊はその名前を呼ばれ、微笑んだ。眉宇を潜めて笑う癖は、彼がよく知る彼女のもの。ロディは全てが夢だったのだと解釈した。何もかもが悪い夢だった。
 しかし、夢はいつか覚めるもの。
 悪夢は終わりを告げ、精霊は再びロディの元へと戻ってきた。長い時を超えて、ようやく出会えた。
 待ち続け、待ち焦がれ、どれほどの時を過ごしてきたのだろうか。
 長年の想いは昇華していく。彼女が自分の下へと帰ってきてくれた。それだけで、良かったのだ。他には何も望んでなどいない。

「やっと、帰ってきてくれたんだね。長い事、悪い夢でも見ていた気分だよ」

 そっと、彼女の頬に手を伸ばそうとする。けれど、体が思うように動かなかった。ひどく重く感じるのは、水に濡れたせいではない。仮初の命の限界点。全てを忘れる事で繋ぎとめていた命が、思い出す事によって少しずつ崩れ始める。
 命の理に叶うものなどない。
 体から生気が抜けていくようで、サリアに伸ばした手は届かずロディは地面に倒れ込む。
 さっと青ざめ、精霊は慌ててロディを抱き起こす。

「ごめん、もう時間が無いみたいだ」

 心配そうな精霊の顔が間近に見える。悲しくて、壊れてしまいそうな表情。
(こんな顔させたい訳じゃないのに)
 けれど、ロディにはもうどうする事も出来なくて、そっと自由の利かなくなる片手を持ち上げる。サリアはその手を取った。

「ねぇ、サリア。ボクはグレンジェナなんて必要なかった。だって、君のそばにいられれば、それだけで良かったから。森で、君と出会った時、ボクは天の御使いが来てくれたのかと思ったんだよ。一人になったボクを哀れんで、神様が遣わしてくれたのかと。だから、神様には感謝してた。あの男が、たとえ神族でも……ボクは恨んでなんていない。そして、君には憎しみで生きてなんて欲しくないんだ」

 例え自身を殺した男でも、恨んでなんていない。命に強い執着は持ち合わせていなかった。それほど長く、彼の命は輝石によって引き伸ばされていたから。だから、死は怖く無い。
 それでもすぐに輪廻の環に戻らなかったのは、彼女に言いたいことがあったから。
 だから、待ち続けてきた。たった一言、伝えたい事があったから。

「サリア、君は精霊だから……ボクの分まで生きて。復讐なんて馬鹿な事は止めて、穏やかな精霊界に帰るんだ」

 全てを過去のものとして、新しい人生を歩んで欲しい。
 それが、亡霊と化した青年の積年の願い。

「ボクはもう、君のそばにはいられないけれど……」

 ―――君だけは幸せに。
 願いは成就した。もう、思い残す事は無い。永らえさせた命は、ここで終わる。
 薄く白く、サリアの顔がぼやけ、次第に視界が霧がかったように何も映さなくなる。
 それは安らかで、触れる腕の温もりだけがいつまでも体に心地良い。そして全てが消えていく。
 もう目覚めは来ない。
 久遠の眠りへと、ロディは落ちていった。
 愛した精霊の腕の中で、静かに彼は引き伸ばした命を空へと還す。
 けれどロディの浮かべる表情は穏やかで、まるで眠っているだけのよう。
 サリアは虚ろに空を見る彼の瞳を、そっと閉じてやった。






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