久遠の眠り
不自然な水飛沫が魔族の周りを漂う。
それに紛れて鮮血の飛沫が宙を舞うように飛び散った。目も冷めるほどに濃い血の香りが辺りに漂う。ゆっくりと、西の亡霊と呼ばれた魔族は顔をあげた。
魔族に向かって行ったエフィーは、その鋭い爪に肩を突き刺された状態となっていた。
そして、魔族の背中からは、鋭く血に塗れながらも刃こぼれはおろか、曇り一つ見えない刃が飛び出していた。くすんだ金色の金属で作られた竜の装飾が印象的な、エフィーの父の剣。それは深々と魔族の心臓を貫いていた。
『かはっ……』
魔族の目が信じられないものでも見るようにエフィーを見下ろす。
頭一つ分だけ背の低いエフィーは、おぞましい金の瞳に見つめられ、それでも負けじと相手を睨みつける。
後ろで控えていたラーフォスには、事の状況が今一理解出来なかった。彼が見たのは走りながら剣を前に突き出したエフィーと、それを軽く凪いでやろうとしていた魔族の姿。そして、エフィーの力量では魔族に届く前に剣ごと弾かれるはずだった。そう、信じがたい事が起こらなければ。
突然激しく地に降り続けていた雨水が凝縮し、魔族に纏わりついたのだ。それが、魔族の動きを奪ったのだと理解できるまでに、少しばかり時間が掛かった。そして、水により動きを縛られた魔族は、迫り来るエフィーに鋭い爪を繰り出す事しか出来なかった。辛うじてそれはエフィーの肩を突き刺しはしたが致命傷にはなりえず、魔族自身が負った傷の代償としては安すぎるものだった。
全ては天から降り注ぐ水が事の成り行きを変えてしまった。
けれど、誰がそんな真似を出来るのだろう?
ラーフォスは魔術を発動させてはいないし、ジュリアも詠唱する素振りは見せなかった。
ならば、誰が?
『馬鹿な……。まさか、この力は……水……の、一ぞ……く?』
魔族は息も絶え絶えに、一歩後退した。
背から突き出した刃が少しだけ体に沈む。その痛みに、魔族は苦悶の表情を浮かべた。
「お前が、今までやってきた事の償いだ……!」
『こんな、っは、はずでは……!』
生来より恐ろしい顔をしていた魔族は、今までに無いほどの邪念に満ち満ちた表情でエフィーと、その後ろを睨みつけた。
途中までは彼の想うとおり事が運んでいたのかもしれない。けれど、それはあっけないほど簡単に幕を閉じてしまった。魔族は体を痙攣させると、ゆっくりと後ろのめりに倒れた。その巨体が倒れ、剣が抜けた胸元から派手に血飛沫が上がる。
その異様な光景を、恐怖に駆られていた村人たちは呆然と眺めていた。
何が起こったのか、しっかりと理解していないようだ。
憮然とした静寂が訪れた。聞こえる音は叫び声でも無く、ただ無情に降り続ける雨音だけ。
「……っ!」
魔族を見下ろしていたエフィーは、後ろから聞こえた微かな声に振り返った。
そこには、顔を抑えてうずくまる少女と、心配そうに駆け寄る青年の姿があった。
「ジュリア?」
エフィーも急に異変を起こした少女に近寄った。
けれど彼女は顔をあげようとはせず、歯を食いしばって何かに必死に耐えるているかのように体を丸める。
「どうした? また、魔術の使いすぎで……?」
体に負担をかけてしまったのであろうか?
魔術は使い勝手が良いと言う長所がある代わり、酷く体に負担をかける。
今までもジュリアは魔術の使いすぎで倒れる事があった。それを考えると、今回もそういった類なのだろうか? いや、少しだけ違う気がした。今回彼女は、それほど魔術を使ってはいない。
「エフィー……、私の事気にしなくて良いから、早くロディのところに行って。大丈夫、ちょっと気分悪いだけだから」
やはり顔を手で覆ったまま、ジュリアは小さく答えた。
「本当に大丈夫? 顔どっか痛めた?」
「ううん、違うの。でもちょっと気分悪くて顔おかしいと思うから、それだけ。だから……」
早く行って。
必死に、何かを訴えるようにジュリアは川の方角を指差した。
そっと、ラーフォスが近寄り、彼女に頭からすっぽりと自身の紫紺色の外套を被せてしまった。
ジュリアの事を気遣っての行動だと分かり、エフィーは小さく頷いた。
「わかった。じゃあ、僕は先に川に行ってるから。落ち着いたら来て」
「うん。すぐに行くから」
外套で顔を含む全てを包み込んだジュリアの、顔のあたりが小さく縦に振られるのを見て、エフィーは立ち上がった。
「ジュリアさんの事は、私が見ていますから大丈夫ですよ。それよりも早くロディさんのところへ」
「分かった」
こくりと頷いて、エフィーは先程アジェルが消えていった道へと向かって走り去って行った。その後姿はすぐに見えなくなる。
ひと時静寂に包まれ、ゆっくりとラーフォスは溜息を吐いた。
「大丈夫ですか?」
身を案じるているような控えめな声で、ラーフォスは蹲るジュリアの前にしゃがみこむ。
「先程、魔族の動きを止めたのはジュリアさんですよね?」
その言葉に、着ぐるみにまかれたような状態のジュリアは、一瞬体を強張らせた。
「まさか、私にそんな力あるわけ無いじゃない。それに、今だって本当に気分悪いだけだし。ほら、私大丈夫だからラーフォスもエフィーと一緒に行きなよ。ロディの事、心配だから」
ジュリアがそう言うにも構わず、ラーフォスは立ち上がり、まだ少しだけ息のある魔族に近づいた。魔族はもう立ち上がる気力も無いようで、ただ鋭く招かれざる訪問者を睨みつける。
『その、女……まさか……』
苦し紛れにようやく声を絞り出し、魔族は低く呟いた。
しかし、その言葉は決して最後まで紡がれる事は無かった。
突然、大地が鋭く裂けて、その場所から紅蓮の火柱が魔族を包み込んで燃え上がった。
『グワァァァァァ』
獣の咆哮のような絶叫を響かせて、魔族は炎に飲まれ、灰となるまで焼き尽くされた。
それが、アダートを脅かした西の亡霊の最期だった。
ラーフォスが振り返るとそこには、手を前に翳し忌々しいものでも見るように焼ける魔族を見下ろす少女がいた。すでに、顔は抑えていない。別段顔色が悪い訳でもなく、いつもと変わらないまだ幼さの残る顔。けれどその翡翠色の瞳には、侮蔑の光が揺れていた。まるで、魔族を憎んでいるかのような――。
「魔族の後始末はこうやって燃やすのよ。じゃなきゃ、その死体から瘴気が沸くから」
「気分は大丈夫でなんすか?」
突然の少女の変わりように、少しばかり驚きの色を隠せないラーフォスは、それでもあえて理由を聞こうとはしなかった。人には触れてはいけない物もあるのだ。
きっと、少女は魔族に何らかの恨みを抱いているのかもしれない。
「大丈夫。それよりも、エフィーを追いかけましょう?」
「ええ、そうですね」
早々に話を区切り、ジュリアとラーフォスは再び歩き出そうとした、その時だった。
急に静かだった村人たちが何か驚きの声を上げ、ざわめき始めた。
まるで、英雄が帰って来たかのような歓待の声。
二人は弾かれるように、振り返った。
そして、十数人の村人に囲まれた、一人の老人の姿を視界に捉える。
「長老、お戻りになったのですか!?」
若い村人の青年が、長老と呼ばれた老人に近づく。
だが、老人は青年を省みる事無く、真っ直ぐにジュリアとラーフォスの元へと歩み寄ってきた。
年の頃は八十を過ぎたか過ぎていないかと言った所だろうか。真っ白な髪は肩の下まで無造作に伸ばされ、皺だらけの顔はどこかエフィーの祖父を思い出す。けれど、こちらの老人はどこか優しげな雰囲気があった。
ジュリアの記憶にあるアダートの長老は、確かラキアへと赴いていたのではなかっただろうか? 長く続く雨で帰るに帰れないのだろうと、宿の主人は言っていた気がする。けれど、村人の態度から老人が長老であると言う事は本当のようで、けれど何故この場にいるのかが分からない。何故老人はジュリアとラーフォスのもとに来るのか、理解することは難しかった。ゆっくりと歩いてきた老人は、二人の目前で歩みを止める。そして、長老と呼ばれた老人は、自らの白く長く伸ばした髭を撫で付けて、重々しく口を開いた。
「お前たちは、ロディアに関わったのか?」
前置きも何も無い、しわがれた声で紡がれた言葉は二人の予想外のものだった。
村人は皆ロディを西の亡霊と勘違いしていた。
そして、その名を知るはずも無いと思っていたからだ。
突然の訪問者に、二人はただ純粋に驚きの眼差しを向けた。