グレンジェナ


 優しい風が一筋、吹き抜けた。穏やかに雲を引き払った空は、地平線に近寄るほど赤く、見上げれば透ける夕闇が綺麗なグラデーションをつくりあげていた。
 鮮やかな空なんて、久しぶりの様な気がする、と思い耽り、木の枝に腰掛けていたエルフは微笑んだ。
 実際、ルーン大陸に着いてからというもの、青空は数えるほどしか見てない。
 そのためか、湿気が引いた夕刻は、何処と無く懐かしいもののように思えた。
 多分、気のせいだと思うけれど。
 雨が止んだのは、今さっきの事だ。空は相変わらず黒い雲が存在していたが、風の流れは早く、暗雲は見る見るうちに西の彼方へと消え去って行った。
 おかげで、命の恵みを十二分に受けた森は、今度は陽の光を必要としているかのように、重い葉を空へと向けている。
 川の氾濫がおさまったかどうかは分からなかったが、とりあえず峠は越したと思われた。
 傍には水の精霊たちが、汚れた雨を浄化していたのだから。
 朝からお菓子作りをしていたロディとジュリアは、今度はエフィーも引き込んでなにやらケーキやパンを焼き始めた。そのためか、昼食には甘いものが並び、あきれ果てるしかなかった。盛り上がったお菓子作りは、今度は夕食を何にするかと言う、実にくだらない話し合いが始まり、三時を回った頃から台所はやたら騒がしくなった。
 見ているのも疲れる気がしたので、アジェルは一人外に出ていた。
 雨は上がっていて、久しぶりに落ち着く森を眺めるのもいいのかもしれない、と思い近くの木に登り、ぼんやりと時を忘れて空を眺めていた。
 鮮やかな新緑の森は、見慣れた蒼き森とは違い、清々しいほどに澄んでいた。
 夕暮れ時だというのに、森の緑は輝きを失わない。
 風の音は優しく、森に住まう精霊は穏やかに歌う。葉の擦れ合う単調でいて独特の心地よさ。
 全てが同じようで、微妙に違う。
 記憶にある蒼き静寂の森は、静か過ぎるほど音に寂しい場所だった。
 それでも、月の光を受けて輝く森は幻想的でいて、何よりも綺麗な場所。
 ふと、焦がれるように、記憶の中の故郷は浮かんでは消えた。
 アジェルは小さく口元を綻ばせた。懐かしさばかり込み上げて、まるで無いものを欲しがる子供に戻った気分だ。
 と、風に揺れる枝が擦れ合う音ではない、人工的な足音がすぐそばで聞こえた。
 早くも無く、かといって遅すぎもせずに一歩一歩、歩み寄ってくる足音は振り向かずとも誰だか察しがついた。
 少しだけ癖のあるテンポなので、覚えやすかったから。

「アジェル、そこにいるのか? 夕飯もうすぐ出来そうだから、そろそろ戻って来いって」

 聞こえてきた声は、予想通り翼有る民の少年。
 思えば彼は空ばかり飛んでいたので、歩き方がおかしいのかもしれない。

「何? 今度はホットケーキでも夕食に挙げる気?」

 軽く嫌味を返してみる。
 甘いものは嫌いではないが、さすがにここまでお菓子ばかり出されると、少し気持ちも悪くなってしまう。

「ん、それが今まで作ってきたお菓子、ラーフォスがつまみ食いのつもりで食べてたら全部食べられちゃって。夕食は最後に焼いたアップルパイだって。早くしないと、食べられちゃうよ」

 つまみ食いであれほどのお菓子を一人で平らげたラーフォスに、拍手をおくってやりたい。と、考えてしまった。だが、残った夕食まで食べられてしまっては困る。エフィーの言うとおり早々に帰ったほうが良さそうだ。
 口には出してこそいないが、実は林檎は好物でもあるのだから。

「それは困るね」

 軽く答えを返してから、アジェルは木の枝から身軽に飛び降りた。
 上手く膝をつかずに着地する。立ち上がると、エフィーが目の前にいた。

「そんな所で何してたの?」

「別に。甘ったるい匂いの無い、清々しい空気が吸いたくて……って言ったら納得する?」

「あぁ、そっか」

 確かにあの家には甘い香りが充満していた。
 長くそこにいたエフィーも、そろそろ限界を感じて気分転換も兼ねてアジェルを探しに来たのだ。
 あれが『良い匂い』なんて言っていられるのはジュリアくらいだ。
 とてもではないが、今はお菓子の家なんて夢にも見たくない。

「雨もやんだし、明日にはラキアに向かえるかな?」

 エフィーは来た道を引き返しながら、そう話し掛けてきた。
 今日も出発しようと思えば出来なくも無かったけれど、なぜかそれは実行されなかった。
 ロディの厚意と、どこか寂しげな彼をおいて、利用しただけで出て行くのは少し気が引けたから。
 けれど、いつまでもこの穏やかな場所に留まれる訳でもなく、別れはすぐにきてしまう。
 目的がある旅なのだから、一箇所に留まれないのは当たり前だけれど、やはり心寂しいものがある。

「そうだね。でも……俺は早くレイルを見つけないといけないから」

 しょうがないんだ。
 その言葉は言えないけれど、確かに別れは寂しい。
 エフィーもアジェルの心中を察したのか、それ以上刺激する事は無く、さり気なく別の方向へ話題を変える。

「レイルってさ、グレンジェナ持ってるのか?」

 後ろ頭に手を当てて、少しばかり気になっていた事を聞いてみる。
 横を見ると、アジェルは珍しく驚いているようだった。

「レイルが持っているのは神石だけだよ。グレンジェナは……古代神とはほとんど関係ないから。でも、何故?」

「いや、別に……。ただ、グレンジェナと神族って関係ありそうだからさ。やっぱ違うよな。でも、神石って何だ?」

 言葉の中に、知らない単語が出てきたので、エフィーは不意に気になった。

「神石って言うのは、言わば神自身。大きすぎる力の制御とかの為にある石だよ。普通は額に埋まってる事が多いかな。レイルも、額に青い石があったみたいだし」

 「額に埋まる石」と聞いてエフィーは自身の額にあるものを思い出す。
(そんなはずは無いよな)
 軽く笑い飛ばしてから、エフィーは複雑な神の産物の名を忘れないようにと、必死に記憶した。

「何だか、神石とかグレンジェナとか蒼き宝玉とか色々あって分かりにくいな」

 数えただけでも、蒼き宝玉が一つ、グレンジェナが四つ、神石は神の数だけ。つまり創世、時空、刻、古代、地水火風の四属性と光と闇と聖と邪で十二。
 それを全て覚えるだけでも大変そうだと思う。

「まぁね。でもグレンジェナはほとんどが架空の話だし、神石なんて覚える意味無いよ。それに蒼き宝玉は、行方すら知れてないしね」

「架空か。でもロディは黒きグレンジェナの継承者だって言ってたよ。今は持ってないらしいけど」

 あの後も、お菓子作りの合間に色々聞いたりしていたのだ。
 神話で四つに砕けたグレンジェナは、宝玉の破壊の力の結晶の黒きグレンジェナ、命の結晶の赤きグレンジェナ、英知の結晶の青きグレンジェナ、そして永遠の結晶の白きグレンジェナに分かれたらしい。
 ロディの受け継いだのは、そのうちの黒い輝石だという。

「そう、黒きグレンジェナ、か……」

 何か思い当たる節があったのか、アジェルは思考をめぐらせるように少し俯く。
 会話はいったんそこで途切れ、黙々と二人は道を歩いた。

「あ?」

 少しばかり歩いた所で、空を仰いだエフィーが足を止めた。
 空に信じられないものを見たように、驚きの表情を浮かべている。

「何?」

 アジェルもつられて東の空を仰ぎ見ると、視界に映りこんだものに微かに眉を潜めた。
 夕暮れ色に染まった深い藍色の空に、不自然な赤い光が煌く。
 陽は既に落ちた。それならば、あの不自然な光は何なのだろうか?
 暗闇に映える、禍々しいほどの紅の色。何故だか、その光は不吉なものに感じられた。

「戻ろう」

 ひと時忘れていた不安が、再び頭を過ぎる。
 ――ここにいてはいけない。
 本能的な何かが、そう告げていた。それはエフィーも感じ取っているようで、空を仰ぐ瞳には微かに不安げな色が窺える。
 長く続いた雨と湿気に、セルゲナ樹海が自然に火事を起こすとは思えない。
 それなら、あの赤い炎のようなものは、偶然に発火してしまったのか、もしくは故意に放たれたか。
 言葉を紡ぐよりも早く、二人は炎の上がったロディの家のほうへ、無我夢中で走り去っていった。
 息苦しいほどの不安を抱えながら。


◆◇◆◇◆


 暗闇に潜むそれは、繰り広げられた惨劇に唇を歪めて微笑んだ。
 新緑の森を包む、鮮やかな紅蓮の炎たち。
 人々の私怨が染み付いた、呪いとも呼べる聖火が一つの家を薪にして勢い良く燃え盛る。
 鮮やかな紅。世界の終焉を象徴する色は、他の何色でも無い。暗闇が暗黒時代の訪れならば、終わりは赤く染まるのだろう。そして、それをもたらす事が出来るのは―――。
 暗闇の奥底に潜む亡霊は、時の訪れが来た事を知った。
 そう、何年も待ち続けた、狂おしいほどに焦がれたその時が来たのだ。
 もう暗闇に隠れる必要は無い。
 ゆっくりと、亡霊は何も存在しない場所から現世に姿を現した。
 人々の絶望の声を期待しながら、悠然と微笑んだ。






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