グレンジェナ


 隣の部屋から聞こえてくる話に、耳を傾けていたアジェルは、小さく息を吐くとソファーから起き上がった。
 そのすぐ隣には、ラーフォスが小さな丸い椅子に腰掛けている。
 身支度はすべて整っているようで、上着まで着込んでいる。
 どうやら、彼は出発する気満々だ。
 朝、虚ろな眠りについていたアジェルは、エフィー達よりも先に起きてきたラーフォスに、半ば強制的に目覚めさせられた。気分は優れないが、その場の嫌な空気を感じ取ったので、目を覚ましておいて良かったのかもしれない、と思った。
 重い空は相変わらずだが、第六感にも似た何かが、胸に引っ掛かる冷たい空気に警戒する。
 元アトリエだった部屋には三脚や油絵の具に油、洗い水のための小振りな桶などが散らかっている。綺麗好きなロディからは信じられない光景だが、「自然のままにしておきたいんです」と言っていたので、特に気にするわけでもなく、空いていたソファーに横になっていた。

「ロディさんは、知らないのでしょうね」

 静まり返っていた部屋で、ラーフォスは小さく呟いた。
 何が、とは言わない。
 自己完結的な、独り言のようにも思えるが、アジェルには何処となくラーフォスが言いたい事が分かった。
 もちろん、ロディとは昨日初めて出会った人物で、面識も何も無い。
 それはラーフォスも同じだ。
 だが、彼の言うグレンジェナには心当たりがあった。

「さぁ、知らないふりをしてるだけけかもよ。でも、厄介ごとに巻き込まれるのは嫌だからね、すぐにでもここから出て行った方がいい」

 先日から感じる悪意に似た何かが、近付いている気がする。
 嫌な予感はきっと外れてはいない。それがどんなものなのかまでは分からないけれど。
 それでもまだ、「厄介事」は回避できる範囲だから。
 早々に逃げてしまおう。

「それに、俺たちは関わらない方が良いから……」

 そっと胸の上に手を当てて、アジェルは小さく呟いた。
 聞こえたのか、ラーフォスは軽く微笑む。
 と、そこで部屋がノックされた。少ししてから聞こえたのはロディの声だ。
 ラーフォスは立ち上がって、扉に向かうと、音を立てないように扉を開けた。
 いくつか言葉をやりとりしてから、何かに頷き、また扉を閉める。
 そしてアジェルのほうを振り返り、口を開く。

「朝食できてるそうですよ。そろそろ毛布を離して起きたらどうです?」

「あぁ、分かった。少ししたら行くよ」

「そんな事言って、二度寝する気でしょう?」

 痛いところを突かれて、アジェルは内心毒づくが、首を横に振り平静を装って「すぐに行くから」と伝えた。
 ラーフォスは怪しんでいたが、諦めるように一息つくと、そのまま部屋を後にした。
 ラーフォスが居間へ行くと、木の壁越しの部屋が少しだけ騒がしくなる。
 アジェルは言われたとおり、毛布に包まると再び横になった。もう少しだけ、と自分に言い聞かせて。
 薄暗い部屋の中、浅いまどろみに溶け込むように引き込まれていった。


◆◇◆◇◆


「うわぁ、同じオーブンでもこんなに綺麗に焼けるんだ!」

 身支度をすませ、最後に腰まで届く長い紫銀の髪を紐で結い終わると、アジェルは部屋から出てきて、絶句した。
 目の前で繰り広げられているのは、すっかりくつろいでいるラーフォスとエフィー。もちろんラーフォスはいつの間にか荷物も上着も脇に退けて、優雅にお茶を飲んでいる。そして、たった今、嬉しそうな言葉を発したジュリアは、ロディとおそろいのエプロンを纏い、台所に立ってお菓子を焼いていた。ほんのりと、シナモンの香りが漂う。

「ラーフォス……?」

 どういう事なのか説明してもらおうと思い、視線を向ける。彼はその視線に気付き、笑顔を返す。

「まだ、雨も降っていることですし、ロディさんがもう少しゆっくりしていくといいって、言いましてね。お言葉に甘える事になったんです」

 悪気も無く、穏やかに説明してくれる。
 もちろん、理解は出来るけれど、納得はいかない。

「ほら、朝食も用意してくれたんだ。って、アジェルもう出発する気だったのか? 気が早すぎるよ」

 すっかり場に馴染んでいるエフィーは、不思議そうにアジェルを見ている。
 その様子から、彼らが出発する気が無い事が分かる。
 つまり、ラーフォスを含めここにいる三人は、もう一泊していく心地らしい。
 お菓子作りに夢中になっている青年と少女の方を見やると、こんがり狐色に焼きあがった、綺麗な丸をしたクッキーをバスケットに盛っている所だった。隙を見て、小さな緑色の子竜ミストが器用に長い舌を伸ばしてクッキーを盗み食いする。それに気付いたジュリアは、ダメと言ってから、子竜の手の届かない所までバスケットを持ち上げると、そのまま居間の大きなテーブルまで運んでくる。
 柔らかなバターの香りも相まって、ほどよく焼けた美味しそうなクッキーがテーブルに置かれる。

「すごいわね、ロディってお菓子作りも得意だなんて」

 嬉々として、ジュリアは後ろからついて来たロディを振り返る。
 ロディは照れくさそうに微笑んだ。
 一人暮らしの男は不精か妙に器用かどちらかに分かれると言われているけれど、これほどまでにきちんとした生活をしていると、それだけで素晴らしい人に見えてくる。
 ジュリアももちろんお菓子作りを手伝っていたが、ほとんどは彼が作ったに等しい。
 と言うよりも、ジュリアではこんなに上手にクッキーを焼けないだろう。
 前に彼女一人が台所に立ち、出来上がった食べ物らしきものを差し出されて、そのあまりの凄惨さに驚いた事があると、エフィーは思い出した。そんなジュリアが手伝っても、職人顔負けの物を作る青年は、やはりすごいのだろう。

「美味しそうだね。でも、おやつには随分と早い時間だな」

「それならエフィーは食べなくても良いわよ。あ、アジェルおはよう。いつからそこに? でも丁度良かった、ロディとクッキー焼いたのよ。朝食と一緒に食べましょう」

 呆然と立ち尽くしているアジェルに、ジュリアは焼きたてのクッキーを差し出した。
 エルフは肉や魚は食べないにしても、お菓子くらいなら食べるらしい。
 前も店先でアップルパイを買っていたことを知っているジュリアは、遠慮無く差し出す事ができた。
 アジェルは少し戸惑うように、一瞬動きを止めたが、差し出されたまだ熱い丸型の焼き菓子を手にとり、一口食べてみる。

「……おいしい、かも」

 口にしたクッキーは、ほんのりと甘く、でも決して甘すぎはせず、外側はさくさくしていて内側はパン生地のように柔らかだった。

「僕には?」

 テーブルの先で、エフィーが抗議の声を上げた。
 生クリームなどを使った甘いものは苦手だけれど、焼き菓子は基本的に好きなのだ。
 ジュリアは仕方がなさそうにバスケットをエフィーにも差し出す。

「本当だ。柔らかくておいしい」

 早速二枚目に手を伸ばすエフィーと、それをからかうようにバスケットを遠ざけるジュリアを見て、アジェルは今日の出発は無理そうだな、と感じた。
 本当ならすぐにでも出発してしまいたい所だけれど、こう穏やかに和んでしまっていると言うに言えない。
 何よりも、ロディが厚意でしてくれていることを、断るのも気が引けた。
 楽しげに笑うエフィーとジュリアを見ていると、何故か不安は遠のく気がした。
 仕方が無く、ラーフォスの隣に腰を下ろし、アジェルは小さく溜息が漏らした。
 がっかりしているのではなくて、どこか安堵を感じている自分に、思わず溜息をついてしまったのだ。
 横目でそれを見たラーフォスは薄く微笑んだ。
 そこへ、お茶を淹れたロディが傍にやってきて、湯気の立つ暖かな飲み物を差し出してくれた。

「すみません。何だか無理に引き止めた形になってしまって……」

「いいよ。どうせ今日も雨みたいだし。こっちこそ、何だか色々迷惑かけてるみたいで、悪いね」

「いえ、迷惑だなんて……。こういう風に賑やかなのって久しぶりで、とても嬉しいんです」

 そう言って、ロディは穏やかに微笑んだ。
 やはりそれは邪気の無いもので、純粋に心からの言葉だと分かる。
 それは何とも言えない、心地よい感覚で、アジェルも知らず知らずのうちに口元が綻ぶ。
 ――時には、こういうのも良いのかもしれない。
 外はまだ冷たい雨が降っているけれど、小さな森の家の中はとても暖かかった。


◆◇◆◇◆


 エフィー達が森の奥深くで、穏やかな時間を過ごしている頃、東のアダート村の人々は恐怖に引きつった眼差しで、集会場に集まっていた。
 皆が皆青ざめ、黒い雨の中、異常なほど怯えた様子であたりを警戒しながら、背を丸めて集会場へと急ぐ。
 少し大きく作られたフードつきの灰色をした雨避けに身を包み、誰一人口を開くものはいない。沈黙の行進の様は、邪神の教会に通う悪魔に魂を捧げた異教徒達のようだった。
 集会場では、隣同士の者がようやく聞き取れるほどの小声で、何かを囁きあっていた。
 言葉を紡ぐ村人たちは、決して楽しそうではない。
 やはり何かに怯えるように、今にも泣き出しそうな顔をしている者までいる。

「宿屋の主人が殺された……!」

「亡霊だ。西の亡霊が我らを祟っているんだ」

「バルテッドは首と腕が無くなっていた」

「その女房は、血を抜き取られたみたいに蒼くなってた」

「暴れた後は無かったわ。まるで亡霊が通り過ぎただけみたいに、床が水浸しになっていただけ」

「――西の亡霊が、長く続く雨に乗って村まで来てしまったんだ」

 誰もが皆、同じような事を口走っていた。
 次第にざわめきが大きくなり、集会場は村人たちだけで一杯になった。
 そして、機を窺っていたかのように一人の男が集会場の壁際にある台の上に現れた。
 怯えた村人の中で、ただ一人勇ましく力強い瞳を持った、中年の男だった。
 農業で鍛えられた逞しい体、見た目の歳の割には、精悍な顔立ちに立派な顎鬚がある。
 彼の名はオード。アダート村の長老の一人息子だ。本来、村人を召集できるのは、村長である彼の父だけだ。だが、村長はラキアへと出向いており、今は不在なのだ。けれどこの緊急時についてを話し合わなくてはいけないので、彼の息子のオードが村人を招集した。
 彼は村人が静かになるまで辛抱強く待ち、やがて口を開くものがいなくなるとようやくその立派な顎鬚に触れて、重々しく口を開いた。

「今日、皆に集まってもらったのは他でも無い、西の亡霊騒動の件だ」

 一瞬の間を置いて、集まった村人がざわめく。
 だがすぐにそれは沈黙へかえり、再びオードが言葉を紡ぐ。

「西の亡霊は、過去の私怨による俺たちへの復讐をしようとしている!」

 オードのその言葉に、村人は疑問の声を上げる。
 彼らにとって西の亡霊とは、脅し文句であり、また架空の人物だったはずだ。
 だがオードの人柄と口調から、彼が嘘をついているようには見えない。
 一体、過去の私怨とは何か。
 聞きなれない話に疑問を抱いた老齢の男が、オードに尋ねる。
 すると彼は自身ありげに語りだした。

「西の亡霊は、昔我らアダート村の者の手により、殺された男の事だ。遥か昔、奴は悪魔に魂を売り渡し、魔族を召喚してこの村に疫病をもたらした。我ら誇り高い村の男たちは必死に悪魔を退け、男を西の森で焼き殺した!! そして、アダートは救われた。だが、奴は最後に我らに呪いの言葉を告げた……」

 オードはそこでいったん言葉を切る。真剣に聞き入る村人たちを一瞥すると、真摯な表情を浮かべ、顎鬚を撫でるように触れると、呟くように口を開く。

「『我、数多の水の力により蘇り、必ず汝らを滅びに導くだろう』と……」

 あたりは騒然とした。驚愕に顔を歪め、不吉な呪いの言葉に心が沈むように小さくなる。
 先日殺された者の家は、床中水浸しで毒々しい紅の液体が混じり、世にもおぞましい光景を醸し出していた。
 彼らは普通の殺され方をしていない。
 一人は抵抗する間も無く首と腕を切断され、体のほうには目立った外傷は無かった。服装の乱れも無ければ、暴れた様子も無い。
 そして、最初に殺された男の妻は、血が一滴残らずに搾り取られたかのように蒼白で、実際彼女の肌はミイラのように風化していた。
 共通点は無い。けれど、殺された二人の周りには、粘着性の高い水溜まりができていた。
 それが一体何を意味するのか。
 オードの言葉どおり、異常なほど降り注ぐ雨で大量の水を手にした亡霊が、怨みを晴らすために動き出したのだろうか。
 もし、そうだとすれば……考えるだけで村人は恐怖に震えだしそうになる。

「どうすれば……!! 亡霊を相手に、私達に何が出来るの!?」

 すがりつくように、一人の子持ちの女がオードの前に出てきて問い掛けた。

「先手を打てばいい。亡霊と言っても、しょせんは人間。殺される前に、浄化の炎で焼き尽くせばいい」

 浄化の炎。
 その言葉に、人々は微かな希望を見出した。
 アダート村では、魔除けに聖水で浄化した黒檀を燃やし、その聖なる炎で夜を照らす。
 その炎は紛れも無く炎の精霊の加護を受けており、弱い悪霊などは触れるだけで消滅してしまうと言われていた。
 その炎で焼き払えば、あるいは亡霊を沈めることが出来るかもしれない。

「さぁ! ぐずぐずしている暇は無い。すぐに村中の黒檀を集め、西の森に赴くのだ!」

 オードが声を張り上げてそう言うと、人々は盛り立つように勇気を振り絞り、同意の言葉を叫ぶ。
 それが、始まりの合図。
 人々は自身の家へ戻り、あるだけの黒檀と聖水を鞄につめて、集合場所である村の入口へと向かった。
 皆亡霊に怯えてはいたけれど、背に腹は変えられない。
 太陽が地に落ちると同時に、彼らは村を出た。







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