グレンジェナ


 大地を刺す針のように、強く降る雨はやむ事無く、何度目かも分からない灰色の朝が来た。
 ぼやける視界を振り払うように、軽く頭を振ってから、エフィーは体を起こした。
 全身が酷く痛むのは、無理な行路を長く歩き続けたせいだろうか。もともと、一行のうちで突飛して早足な者はいないので、幸いと言うか足に豆が出来るような自体には陥っていない。それでも、今まで歩き続けるような事が無かったので、多少の筋肉痛は仕方が無いように思える。
 思い返せば、長く旅をしてきたような感覚があるが、実際自分の足で歩いてきた行程は、それほど長くない。ラーフォスのように旅慣れするためには、どうするべきか、エフィーは今度尋ねる事にした。
 周りを見ると、部屋には誰もいなかった。三つある寝台うち真ん中で寝ていたエフィーの両隣は、綺麗にシーツも整えられて、昨夜この部屋に来た時と寸分変わらない状態だった。ラーフォスはとても早起きだし、ジュリアも常識の範囲でそれなりに朝はしっかりと起きる。エフィーも朝寝坊をする方ではないが、昨夜はそうとう疲れていたのかもしれない。
 もそもそと、寝台から這い出ると少しばかり冷えた空気が足元を震わせた。空は相変わらず心まで気落ちさせてしまうようなくすんだ灰色をしていて、壁にかけられた時計を見るまで今が朝だということに気付くことが出来なかった。
 別に、エフィーが寝坊したわけではなかったのだ。人の温もりがまだ残る寝室の壁にある時計の針は、八時を指していた。エフィーは寝台の横に脱ぎ捨ててあった靴を履くと、軽くつま先で床をけって調子を確かめた。少しばかりぎこちないが、それは致し方ない。慣れるまでの辛抱だ。
 昨晩ロディに案内された、寝室から通じる扉の向こうにある洗面台で顔を洗うと、眠気は一気に覚めた。地下から引いていると思われる水は、氷を溶かしたばかりのように冷たかったのだ。
 身だしなみを整えて、居間の方へ行くと、先客がすでに椅子に座り、朝のお茶を楽しんでいた。
 一人は家主であるロディ。その向かい側にはジュリアが座っていた。他の二人の姿は見当たらない。ラーフォスの場合、完全に行方不明だが、アジェルはまだ眠っているのだろう。

「おはよう。よく眠れたかい?」

 エフィーが居間に出てきたことに気付いたロディが、さっそく声をかけてきた。

「あぁ、おはよう。一日振りなのに、すごくベッドがふかふかしてて気持ち良かったよ」

「今日も残念な事に雨みたいだね。でも、雨雲が薄くなってきたから、そろそろ止むと思いますよ」

 ロディは相変わらず、邪気の全く無い笑みを浮かべる。
 穏やかな人柄に、エフィーもジュリアもほっとする気がした。
 新大陸に来てからというもの、こういった落ち着いた人と会話する機会があまり無かったからかもしれない。もとい、親切な人があまりいない気がした。
 確かにラーフォスは口調は優しく、表面上は穏やかだが、どこか棘のある言葉を言う事も少なくはないし、人を怖がらせる事も好きなようだ。
 そのせいかロディのように天然穏やかな人種だと、何処となく安心できる。

「お腹すいてる? ちょうど朝食を作った所なんだ。良かったら一緒に食べないかい?」

 ロディはテーブルに綺麗に並べられた朝食らしきものを指差した。
 粉をこねて作った手作りのパンに、熱でとろけるバターが乗っかっている。隣の皿には、燻製肉とトマトとサラダが適度に盛られていた。それから、ロディを数えた人数分のお茶が入れられたカップが並べられていた。
 気のせいか、ジュリアの皿のパンだけ焦げている気がした。当の本人は、何も言うなと、鋭い視線を送りつけている。どうやら、手伝った彼女が焦がしたものらしい。

「うん、ありがとう。昨日は疲れてて感じなかったけど、お腹もすごく減ってたんだ」

 嬉々として食卓につくと、エフィーは湯気の立つお茶を一口のんだ。
 昨日の紅茶とは違う、風変わりな風味のお茶だった。
 エフィーがパンに手を伸ばすと、ロディも同じように自作のパンを一口ちぎって食べた。
 その隣で、ジュリアは焦げたパンの、無事な部分をちぎりだす。その様に、エフィーは思わず笑ってしまった。
 もちろん、その瞬間にジュリアに睨まれたので、さっとサラダの方に視線を泳がせる。

「僕の家のオーブンは気分屋でね、扱いに慣れていないと誰でも焦がしてしまうんだよ」

 エフィーとジュリアのやり取りを理解したロディは、フォローするように説明してくれた。
 ジュリアはあまり料理の得意なほうではないが、それでもパンを焼く程度なら出来る。
 彼の言うとおり、今回はオーブンが悪かっただけなのかもしれない。

「前に、このオーブンでパイを焼こうとした子もいたけど、真っ黒に焦がしていたよ。それはもう、黒檀と区別がつかないくらいにね」

 思い出すようにそう言い、ロディはおかしそうに笑った。
 つられてジュリアも、恥ずかしげに笑う。
 けれど、ロディは笑ってはいても、どこか寂しげに見えるのは気のせいだろうか?
 思い当たる節があったので、エフィーは失礼だと感じながら、聞いてみることにした。

「それって『サリア』さんの事?」

 ロディが待っているという、女性では?
 その名前が出ると、彼は不思議そうな顔をしてから困ったように微笑んだ。

「よく、分かったね。もう随分昔の事だけど……」

 彼の言う「昔」がどれだけの年月なのかは分からないけれど、寂しげな顔からは未だに待ち焦がれている事が分かった。
 最初、アジェルに抱きついた事を考えれば、恋人かなにかなのだろう。
 家族にしては、少し遠慮がちな説明をするからだ。

「サリアさん、何処かに行ってるの?」

 ジュリアがそう聞くと、ロディは軽く頭を横に振った。

「出かけたって言うよりも、出て行っちゃったのほうが近いかな。彼女は精霊でね……何でも精霊王から地上に派遣されたらしいんだ。僕がサリアと出会ったのは、彼女が地上で迷子になっていた時なんだ」

 精霊と言う単語に、エフィーとジュリアは先日のラーフォスの言葉を思い出した。
 確か、上位精霊は精霊王の命を受けて地上に来る事があると言っていた気がする。
 だが、そんな上位精霊が迷子とは、少々あきれる話でもある。

「なんて言うかな、俗に言う方向音痴って奴だったんだと思います。なにせ、セルゲナ樹海を一週間彷徨っていたらしいですから。仲間の精霊とはぐれてしまったらしくて、しばらくうちで迎えが来るのを待っていたんですよ。でも、中々迎えは来なくて、気付けば数年の年月が経っていました」

 精霊は時間の感覚がずれているのだろうか?
 それでもロディは酷く懐かしむように昔を思い出す。
 穏やかな表情は、寂しさこそ感じられるけれど、私怨らしきものは欠片も感じられない。
 何かの事情があってサリアは出て行ってしまったのだろう。
 それでも、きっと恨んではいない。彼はこんなにも穏やかに一人の精霊を待っているのだから。

「何だか、気の遠くなる話ね。……でも、サリアさんは何で出て行っちゃったのかしら?」

「何で、ですか。少しめんどくさい話になるんですけどね。神族をご存知ですか?」

「知ってるよ。蒼き神話に出てくる一族の事だろう?」

 神学には少しばかり自身のあるエフィーが、いつもよりも目を輝かせて答えた。
 神族が関わっていることに、少しばかり胸が弾む。

「そうです。じゃあ、蒼き宝玉については?」

 蒼き宝玉。それは神話の終わりをもたらした、神々の力の象徴とも言われる輝石の事だ。
 前にアジェルが簡単に説明してくれた事を思い出す。
 たしか、神話の終わりで、戦争を繰り返す人と神を悼み、宝玉は悲しみのあまりに涙を流した。
 涙は地に当たり四つに砕けて飛び散り、その力を失ったと。
 そして、飛び散った涙の欠片はグレンジェナと呼ばれる事。

「ディープブルーと、グレンジェナ?」

 ジュリアも記憶をめぐらせて、思い出すように呟いた。
 ディープブルーとは、蒼き宝玉の別名だ。
 深き青と呼ばれるからには、やはり輝石自体が蒼いのだろうか?
 そんな事を考えていると、ロディは説明するまでもなく、二人がそれなりに神学を知っている事に驚いてから、また優しく微笑んで頷いた。

「そう。僕の父は砕け散った四つのうち、黒のグレンジェナの継承者だったんです。それ故に、人とは少しだけずれた時間軸に身をおいていて、かるく数百年生きてきていました。グレンジェナは、継承した者に、不老の力を与えるんです。それは知っている?」

 とんでもない事実を聞いてしまい、エフィーとジュリアは困惑したように驚いた。
 宝玉やグレンジェナはあくまでも神話上の産物だと思っていたのだ。
 それが実在し、その継承者の息子が今、目の前にいる。
 夢を見ている気がして、エフィーは数回目を瞬く。

「驚くのも無理ないですよね。これは本当は人に知られてはいけない事ですから。僕も神話の事はよく知りませんが、グレンジェナは僕の一族で守るべきものだったらしいんです。隠密にされていたのに、何処からか噂が流れて、父は仕方なくグレンジェナを持ち出して一人流浪の生活をしていたらしいです。グレンジェナは人の目から見れば、きっとなにものにも変え難い貴重なものですから……」

 どことなく話が見えてきて、エフィーは少しばかりこの先の話に不安を感じる。
 彼の父は、欲に目の眩む人々からグレンジェナを守るために、流浪していたと。それはあんまりな話だ。
 それでも、ロディは相変わらず穏やかな表情で、語り続けた。

「父は、長く放浪してきたせいで体にがたがきていたんですよね。母が亡くなって、僕が物心ついた頃には、床に伏せっていることのほうが多かったですから。グレンジェナは不老と生命力を与えてはくれるけれど、それは不死じゃないんです。ですから、衰弱で父が亡くなり次にグレンジェナを受け継いだのは僕でした。そしてグレンジェナを継承した数日後、サリアに出会ったんです」

「それじゃあ、ロディはグレンジェナを持っているの?」

 グレンジェナと言うものが、どういった形をしているのかは知らないけれど、それでも興味をそそられるのは当たり前だ。
 それは勿論、欲から来る訳ではなくて、単純に興味を持っただけだ。
 ロディも不審そうな表情をする事は無く、それでも少しばかり困ったように笑った。

「それが、大分前に盗まれてしまったんです」

「え?」

「グレンジェナを欲しがっている人がいまして……あっさりと持っていかれてしまったというか……。それで、僕よりもサリアが怒り出して、グレンジェナを取り返すと言って出て行ってしまったんです。お恥ずかしい話ですけどね。それ以来、彼女は行方を眩ませていて、あても無いままこうして帰りを待っているんです。でも、よく考えれば彼女は精霊ですからね。もしかしたら仲間と合流できて、本来の世界へ帰ったのかもしれないですし……。帰ってくるなんて、分からないんですよね」

 あまりにも救いようの無い事実に、エフィーはロディに同情したい気分だった。
 エフィーは父がいなくても、じいちゃんがいて、ジュリアがいて、仲間がいた。
 でも、ロディはたった一人きりで、帰るかも分からない人を待ち続けている。
 それは終わりすらも見えない途方も無い話。
 何故、彼がエフィー達を家に招いてくれたのか分かった気がした。

「ただ、僕は彼女が戻ってきてくれればそれで良いんです」

 そう言って、ロディは柔らかく微笑んだ。
 まだ空は曇り、天からは透明な涙のような雫が降り注ぐ。

「長話をしてしまいましたね。さ、冷めないうちに食べてしまいましょう。連れの方もそろそろ起こしてあげないと」

 そう言って、ロディはまだ寝ているのであろうアジェルの部屋へと向かっていった。
 ラーフォスの姿は相変わらず見えなかったが、多分心配ないだろう。
 彼の神出鬼没は今に始まった事ではない。

「何だか、切ないね……」

 パンを千切り、口に運ぼうとしていたエフィーは、ジュリアの小さな呟きを聞いて、一瞬手を止めた。
 だが、返す言葉が見つからず、そのまま手を動かす。
 一体、彼はどんな気持ちで精霊を待っているのだろうか。
 それは、聞きたくても聞けない疑問だった。
 少なくとも、彼は誰も憎んではいない。帰らない精霊の事も、原因となったグレンジェナも、グレンジェナを奪った誰かの事も……。






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