グレンジェナ


 空から嘆きの声が聞こえたような気がした。昔、誰かが雨は天使の涙なのだと言っていた気がする。天使に間違われる翼族は、涙を流してもこのように人々の気を落ち込ませるほど迷惑に泣き喚かない。くだらない話ではあるが、青々とした空を忘れてしまったかのような天を見上げて、エフィーは感傷に浸るように思い出し笑いを浮かべた。
 森で偶然に出会った青年は、ロディアと名乗った。普段はロディと呼ばれているらしい。
 ロディに連れられて、橋の沈んでしまった川を背に少し歩き、そう時間が経たないうちに家らしきものが視界に入り込む。森の道では無い、自然に出来た獣道を通ってきたために、このような森の奥地に家を構えている青年が不思議でならなかった。この場所からアダート村まで、そう遠くないとしても、やはり買出しなどを考えれば不便極まりない。
 だが、そんな事はまったく気にしていないらしく、ロディはエフィー達を木で出来た大きくも無ければ小さくも無い、森の家へと迎い入れた。
 家の中は質素な外見とは異なり、人の暮らす温かみがあり、丁寧に掃除されて清潔に保たれていた。見たところ、青年は一人暮らしのようだ。扉に入ってすぐにある居間には、楕円を描いた樹木の年輪がはっきりと浮かび上がる大きな机が一つあり、そのまわりを机を縮小したかのような椅子が四つ囲んでいた。壁には鮮やかな油絵の絵画がかけられていた。どれも上手いとは言えないが、稚拙ながら美しい色で描かれた森が部屋の雰囲気を盛り上げている。目に付く家具は全て手作りのようだった。
 ロディはエフィー達に椅子を勧めると、自分は厨房の方へお茶を入れに行ってしまった。
 残されたエフィー達はとりあえず、それぞれ荷物を床に置かさせて貰い、寛ぎ始める。
 まずは渡された手拭で大分濡れてしまった服から水を吸い、雫の滴る髪の毛から水気を取る。
 ロディが可愛らしいティーセットを載せた盆をもって現れた頃には、大分落ち着く事ができた。
 致し方なかったとはいえ、全身びしょ濡れで旅路を行くのは些か辛い。
 エフィーは偶然であったとはいえ、ロディに出会えたことに感謝する事にした。

「エフィーさん達は旅人なんですよね? ラキアへ行く途中のようでしたけど」

 ロディは給仕のように、丁寧な動作でそれぞれの目の前にカップを置いて廻った。白い花柄の可愛らしいポットからそそがれたのは、澄んだ赤茶の香ばしい紅茶のようだ。喉が渇いていたのか、いれられたお茶をジュリアは礼を述べてから口元に運んだ。恐る恐る口に含んだ少女の顔が、見る見るうちに柔らかく微笑む。彼女好みの甘味のあるお茶らしい。

「まぁ、旅人と言えば旅人だよな。でも目的地はハッキリとしてないんだ。僕達も人探しの途中だから」

 人探しという言葉に、茶菓子を戸棚から取り出そうとしたロディの手が、ほんの一瞬止まった。
 先程、人を待っていたと言うロディは、待ち人と間違えてアジェルに抱き付いてしまった。アジェルはさっさと橋を渡ってしまいたかったらしいが、生憎橋は増水した川に飲まれ、流されてはいなかったものの川を渡ることは無理な状態だった。水が引くまで待たなくてはいけなくなってしまった時に、ロディはエフィー達を家にお詫びも兼ねて誘ってくれた。一時とはいえ、雨を凌げる誘いを断る理由も無く、一行は案内されるままにロディに着いていったのだ。
 道を行く過程で、ロディは待ち人――サリアの事を少しだけ話してくれた。
 鮮やかな紫銀の長い髪を持つ、ロディの恋人だと言う。
 大分前に家を出て行って以来、音信不通で手掛かりすらも無く、探す当ても分からないらしい。

「貴方達も探し人ですか。ではラキアへは情報収集に?」

 広大なセルゲナ樹海が広がるルーン大陸で最も栄えているのは、王都ラキアだ。エフィー達は地上界唯一の神族「レイル」を探すためにこの大陸に来た。だが、広大なこの地で一人を探すことは容易くなく、また情報も少なすぎる。それならば、後を追う手掛かりとして、情報豊かであろうラキアへと向かう事になったのだ。
 だが、物事はそう上手く運ばず、セルゲナ樹海に長く足止めされたままだ。

「そうね。とりあえず今の所はそういう予定かな」

 差し出された薄い焼き菓子を一つ手に取ると、ジュリアはお茶を一口飲もうとしているエフィーの代わりに答えた。

「そうですか……。お急ぎかもしれませんが、良ければ雨が上がるまで寛いでいって下さいね」

 ロディはそう言って、穏やかな笑みを浮かべた。純粋な厚意だと見るだけで分かるのだけれど、微笑む彼の表情はどこか寂しそうに見えた。だが、その場の暖かな雰囲気に、すぐにその事は忘れてしまった。

「ありがとう」

 素直に、ジュリアが少し早すぎる感謝の言葉を紡いだ。
 エフィーは紅茶を思い切って飲んでみた。あまり熱いのは、猫舌であるため苦手だが、冷めた紅茶ほど不味いものは無い。一口、飲んでみた紅茶は、甘い野苺の味がした。
 ふと、横隣を見やると、ラーフォスとアジェルも同じように紅茶を飲んでいる。
 窓を見やると夕刻に近い時刻だろうか。こう暗雲立ち込める天気だと、いまいち時間の把握が出来ない。だが、家を見回すとアナログと思われるぜんまい式の時計を見つけることが出来た。短い針は丁度、九時を指している。村を出たのが朝だとすれば、適当な時間とも言えた。
 エフィーの視線の先に気付いたロディは、気を利かせてくれたようで、隣の部屋を一瞥してから口を開いた。

「隣の部屋に、寝台が三つありますので、お疲れだったらどうぞ好きに使ってください。僕は屋根裏にいますから、わからない事があったら何でも言いに来て下さい」

 一日中歩き通しだったので、疲れていないといえば嘘になる。もともと旅慣れしている訳ではないのだ。唯一、旅慣れしているのはラーフォスだけで、アジェルは決して顔には出してこそいないものの、持久力に欠けていた。一人背が低く、歩幅も狭いジュリアは、一行の中で一番疲れている様に見える。
 それを察してくれたロディは、隣の部屋の扉を開けて、部屋の中を確認してから「どうぞ」と手招きした。
 ひとまず、今日はロディの厚意に預かって、休む事にした。
 話し合ってから、ジュリアとエフィーとラーフォスが三つある寝台を使うことになり、アジェルは居間の隣にあるアトリエ風の部屋のソファーで横になる事になった。何でも、一人のほうが落ち着いて寝れるかららしい。大方、朝うるさく起こされるのが嫌なだけだろうと、エフィーは心の中で思った。
 アトリエ風の部屋の事をロディに聞くと、彼は

「昔父が使っていたものなんです。父は絵を描くのが好きでしたから」

と言って、穏やかに微笑んだ。
 過去形の言葉の意味が何となく分かり、エフィーはそれ以上尋ねようとはしなかった。
 無粋であるし、そこまで気がまわるほど元気ではなかったからだ。

「どうぞ、ごゆっくり休んでくださいね。あ、洗面台はそっちの隣の部屋にありますから」

 心配性なのか、ロディは家の事や必要なものの場所などを細かく説明してくれたので、エフィー達が寝台に入ったのは十時を廻ったころだった。
 服は、濡れていない予備のものに着替え、久しぶりに感じる渇いた心地に意識はすぐに夢へと誘われていった。
 深い眠りに落ちる時、エフィーは何処かで誰かの声を聞いた気がした。それは悲鳴のような耳に残る音で、酷く気持ちが悪かった。それでも、一度眠りについてしまうと、そんな記憶は綺麗さっぱり消え去っていった。






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