森の村
降り注ぐ雨の中を、エフィー達はひたすら進んだ。
先日、アダート村に着いた時の様に、全身びしょ濡れではあったが、今はそれほど気にならなかった。
不吉な何かから逃げ出すように、エフィー達は口を開かずに道を急いだ。
地図によればそう遠くない場所に王都ラキアへと続く橋があるはずだ。
雨に打たれながら進んで、一時間ぐらい経っただろうか。ようやく、激しい雨音に紛れて川のせせらぎの音が聞こえてきた。
川が近くにあると分かり、歩く速度も自然に速まっていく。
「見て、川があるわ」
先を歩いていたジュリアが、嬉しそうに振り返った。指差す先には、濃い青の流れが見えた。
ようやく川が見えてきたので、エフィーは橋も近いのでは、と思った。
案の定、少し行った場所に、橋らしきものはあった。相変わらず氾濫を起こしたらしい川は増水していて、橋は流されてはいないものの、すっかり水の中に沈んでしまっていた。下流だからこそ、余計に増水してしまったのだろう。
再び振り出しに戻ってしまった一行は、流石に落胆の色を隠せなかった。
だが、前回とは少しだけ異なっていた。橋のそばには見慣れない人物がいた。雨に濡れる事もまったく気にしていない様子の、一人の青年がぼんやりと川を眺めながら立ち尽くしている。エフィー達の存在にも気付いていない様子で、何かをしているでもなければ、ただ立ち尽くしていた。その姿を見なければ、存在しているのかも分からないほど、青年は辺りの空気に溶け込んでいた。
濃い茶色の癖の強い髪の毛が特徴的な、まだ若く背の高い青年だった。
不意にエフィーとジュリアの脳裏に、宿の主人から聞いた亡霊の噂が過ぎった。
しかしその考えはすぐに消え去った。まず亡霊など存在する訳が無いのだ。それにこの青年には足も二本生えていて、地に影を落としている。
後姿を見ただけでは、何処にでもいそうな青年だ。しかし、普通に考えればこのような森の奥深くに、人がいるのもおかしな話だ。旅人であるエフィー達なら分からないでも無いが、後姿だけ見える青年は、旅人と言うには軽装で、荷物らしきものも見当たらない。武器も持っておらず、酷く無防備であった。恐らく、村人が川の様子を見に、遠出でもしてきたのだろう。
ここからアダート村まではかなりの距離がある。この青年がアダート村の出身ならば、何故こんな場所にいるのだろうか?
戸惑うエフィーを横目に、不審に思ったらしいアジェルが声をかけた。
「何してるの?」
その冷ややかな声色は、少しばかり警戒しているようだった。
アジェルの声に反応して、青年はゆっくりと振り返る。濡れた髪の毛から、雫が数滴地面に零れた。
振り返った青年は、穏やかな眼をした涼しげな表情の、まだ若い村人のようだった。大人びた面長の顔は、どこか人当たりの良さそうな印象を受ける。
青年は、焦点を声をかけたであろうアジェルに合わせた。途端に、その緑色の瞳が大きく見開かれる。
一歩、よろめくようにアジェルに近づくと、背年は口を小さく開いた。
「サ……リア……?」
青年は名前らしき言葉を呟き、さらに数歩アジェルに近寄った。
手を伸ばせば届く程近寄ると、青年は突然大きく腕を広げ、事もあろうかアジェルを腕に閉じ込めた。
「――!!」
遠目に見ていたジュリアが、声にならない悲鳴をあげた。エフィーも突然の青年の行動に、どうしてよいか分からずに、呆然と見入っていた。
抱きすくめられたアジェルは、頭一つ分背の高い青年を静かに見上げた。
「サリア……待っていたよ。やっと、帰って来てくれたんだね」
意味の分からない言葉を言いながら、青年はエルフの少年を抱く腕に力を込めた。
はたから見れば、恋人同士が抱き合っているように見えなくも無いが、相手は冷血漢のアジェルだ。エフィーはこの後の展開を予想して、青年の行動を止めようとした。
「何を血迷ったか知らないけど、それ以上は――っ」
静止の言葉は、言い切る事はできなかった。否、意味が無かった。
沈黙を守るアジェルが、静かに殴り飛ばすのを予期していたエフィーとジュリアは、エルフの少年のとった行動に驚いた。
相手を蹴り飛ばす訳でもなく、怒りの眼差しを向けるでもなく、ただ静かに相手の胸を押し、回された腕を解かせて距離をとる。それは酷く穏やかに、怒気の欠片も含まずになされた。意外と短気なエルフには考えられないほど、落ち着き払った仕草だった。これがエフィーなら間違いなく川に落とされていただろう。
拒否された行動に、青年は困惑の表情を浮かべた。
「残念だけど、俺はサリアじゃない。人違いだよ」
「そんな、だって紫銀の髪……の……?」
青年はまじまじとアジェルを見つめた。
紫銀の髪と聞いて、エフィーは何となく理解した。確かにアジェルの髪の毛の色は酷く稀なものだ。エフィーもジュリアも、初めてその色合いを見たときは驚いたものだ。硝子のように透きとおる、鮮やかな瑠璃を帯びた不思議な髪色。物珍しい髪を持つ者が探し人に似ていたのだろう。
青年は少し記憶を巡らすように、瞳を閉じた。
刹那の時を挟み、青年はゆっくりと瞳を開き、アジェルを真っ直ぐに見つめた。
青年の目に映ったのは、探し人に良く似た、小綺麗なエルフの少年だった。
「――違う。サリアじゃない……」
青年は生気を失ったかのように、アジェルから一歩離れてうな垂れた。その瞳には、酷くがっかりとした諦めの色が窺える。
「すみません、驚かせてしまって。待っていた人が、君とそっくりな紫銀の髪をしていたから、つい……」
申し訳なさそうに、アジェルに頭を下げて青年は言った。
アジェルは、誤解だったと初めから気付いていたようで、相変わらず淡々とした口調で青年に言葉を返す。
「別に、驚いてなんて無いから」
謝らなくても良いと、付け足す。
だが、青年は申し訳なさそうに俯いた。恐らく、迷惑をかけてしまったことと、待ち人ではないという二つの事柄が、少なからず青年の心を落ち込ませてしまったのだろう。
空から零れ続ける雨は、止む気配を見せず長い事降っていた。
エフィーは青年が雨に濡れるのも構わずに、探し人を待っていたのかと思うと、少し哀れに感じた。よく似た人物に出会えても、何の喜びも無い。一体、どれほどの時を待っていたのだろうか?
何処となく可哀想な青年に、エフィー達はかける言葉を見つけることは出来なかった。
降り注ぐ糸のような雨の音が耳に残るほど、しばしの沈黙が訪れた。
「あの、もし時間があればお詫びにお茶でも飲んで温まっていきませんか? こんな雨ですし、少し休むつもりでどうでしょう? ボクの家、すぐ近くにあるんですよ」
暗い沈黙を破ったのは、青年の方だった。
青年の誘いに、エフィーは少し考えた。空は暗く、降り注ぐ雨のせいでぬかるみだらけの夜道を歩くのは得策ではない。
そして、この雨がすぐに止むとは思えないが、少しばかり雨を凌ぐのも良いのかもしれない。
ラーフォスも同じことを考えていたのか、青年の言葉にエフィーとジュリアを仰ぎ見た。
ジュリアは疲れていると言わんばかりに、肩をすくめて見せた。もともと、雨は好きではないらしい。
が、答えを返したのは他の誰でもなく、アジェルだった。
「悪いけど、急いでるから……。それよりも、他の橋を知ってるなら教えてほしい」
つれない返事ではあるが、急いで橋を渡ろうとしていた今までの行程を考えれば、当然の返事ともいえた。どんな理由であれ、この森には長い事いないほうが良いと、アジェルは考えているようだ。
「そうですか……。でも残念ですが他の橋は多分流されていると思います。もし流されていない橋があれば、北の方角のアダ−ト村から続く道の橋ぐらいでしょう」
「その橋なら、もう流されていたわ。私達が来たのはそっちからだから」
辛うじて橋の形が残されているのは、どうやら今いるこの場所だけなのだろう。だが、激しい水流に飲まれ、水が引くまでは橋は渡ることは出来そうも無かった。となれば、この場所で水が引くまで待つことになるだろう。それはあまりに酷な話でもあった。
「もし、行く場所が無ければ、うちに水が引くまで泊まっていきませんか? 快適とはいえませんが、雨は防げますよ」
そう言って、優しい瞳の青年は微笑んだ。まったく悪意の無い穏やかな笑みに、エフィーもジュリアもつい頷いてしまいそうになる。が、決めるのはアジェルに任せる事にした。自然の事柄に関しては、森のエルフのほうが詳しいだろうし、どうするべきか正確な判断が下せるだろうと、エフィーは思っているからだ。
アジェルは川のほうを見た。水嵩が増し続けているように見える川は、しばらく収まるようには見えない。何よりも、雨がいつ止むかも全く予想がつかなかった。
辺りの精霊は怯えるように気配を消して、何処かに雲隠れしてしまったよう。
これでは、気象予報士でなければ天候がどうなるか分からない。
アジェルは小さく溜息を吐くと、青年の方へ向き直った。
「それじゃあ、少しだけお邪魔させてもらってもいいかな?」
小さな声で、そう呟いた。