森の村


 刹那の夢。人はそう呼んでいた。
 かつてあった、人と精霊との禁じられた恋物語を。
 全てが遅すぎて、すれ違いが悲劇を生んだ。
 今となっては誰も知ることなど無いけれど、それは確かに過去に起こった物語。
 アダート村では、有名な話でもあった。精霊と別れさせられた青年が、夜な夜な森を徘徊し、恋人を呼んでいるのだという。そして、流した涙の分だけ、人の生き血を啜る恐ろしい亡霊に成り果てた事。
 妙な噂ではあるが、村人は決して夜の森を出歩こうとはしない。昔、噂を軽んじて村人が止めるのも聞かず、夜の森を抜けようとした旅人たちが、翌日セルゲナ川の下流で発見された。川は赤く染まり、無残に引き裂かれた旅人たちが恐怖に引きつった面持ちで、冷たくなっていたのだと言う。全身を引き裂かれたと言っても過言ではないほど、旅人たちはぼろ布のように、打ち捨てられていた。
 村人たちは騒然とした。
 中には家を捨て、ラキアのほうへ逃げるように越していったものもいる。
 それからと言うもの、アダート村の人々は、夜出歩く事は決してしない。勿論、不穏な噂の流れる西の森にも決して近づこうとはしない。現に、村を出なければ安全に過ごせる事は、今までで実証されているのだ。

 四人組の旅人を送り出したアダート村の人々は、いつもと変わらず穏やかに生活していた。
 朝早くは村の広場の井戸周りに、女たちが集まり洗濯をしながら日常の話に花を咲かせている。
 村はずれにある畑では、農夫たちがせっせと雑草を摘み、地下から引いた水をやる。
 極普通の日常だった。
 だが、空は次第に暗雲が立ち込め、流れる風がぴたりと止んだ。
 息が詰まりそうなほど、しんと静まり返った森に、人々は不安を覚えた。
 今にも振り出しそうな雨雲に、人々は急いで仕事を終わらせて、家路についた。
 温かいこの地方では考えられないほど、冷え切った空気が西の果てから流れてきた。
 森の木々の擦り合う音すらも、聞こえはしない。
 やがて、地面に冷え切った灰色の雫が零れ落ち、大地に染みをつくった。ぽつり、と別の場所でも雫が零れ、小さな染みを作り続ける。
 ゆっくりと降り注いでいた雫は、段々激しくなり、気付けば村の空を暗雲が覆い尽くしていた。
 次第に闇が辺りを凌駕し始めた。
 まだ夕方を少し回った程度の時刻だと言うのに、村の光は完全に遮断されていた。右も左も分からず、帰り道を行く事すらも難しい。
 人々は早くに眠りにつこうと思い、夕食を済ませた後、早々に寝台へ入った。
 一つ、また一つと家々の灯りが消えていく。
 やがて、村から光の零れている家は無くなった。
 激しく降り注ぐ雨音だけが、夜の夕闇に響いた。そして空気は一層に冷え込んでいく。
 暗闇の影で、息を潜めていた「それ」は、光が消えると共にゆっくりと動き出した。
 亡霊の如く青白く霞んだ体は薄く透けていて、地面に近づくほど闇と同化していた。「それ」は生き物ではなかった。暗く窪んだ、禍々しいほどに輝く金色の瞳が印象的な、何かだった。人に似ているようで、人とは異なる姿形。
 人々の目に映る「それ」は、言うなれば亡霊という言葉で呼ばれるだろう。

 宵闇の中、亡霊は赤い唇を薄く上げて、微笑んだ。
 ―――探し物を見つけなくてはいけない。
 亡霊は、一つの家の暗闇に溶け込むように消えていった。
 鮮血の夜、降り続ける雨の中で、空気を引き裂くような叫び声が上がった。
 それは、繰り返される物語。
 恋人を探して彷徨う青年の、渇きを癒すための狂宴――。


◆◇◆◇◆


「え?」

 遥か遠くから、何かの声が聞こえた気がして、エフィーは振り返った。
 振り向いた先にいたのは、降り注ぐ雨にうんざりした様子のジュリアだった。

「どうかしたの?」

 ジュリアは不思議そうに、突然振り向いてきたエフィーを見上げた。
 西の道を行くといって、歩き続けたは良いが、突然夕方に差し掛かった頃から雲行きが怪しくなってきた。村の方は濃い暗雲に見舞われ、エフィー達の行く道にも次第に黒い雲が走り急ぐように近付いて来た。やがて、雨宿りできる場所を見つける暇も無く、土砂降りの雨が降り注いできた。
 エフィー達は仕方が無いので、一休みをかねて大きな木の下で寛いでいたのだ。

「いや、何か聞こえた気がしたけど……」

 気のせいだろうか? 少女は相変わらずわけがわからないという顔をしている。
 エフィーは空を仰いだ。雨は止みそうも無く、暗い雲の間から絶えず降り続ける。窓から覗く雨は、綺麗だと感じたけれど、こうして目の前で湿気を撒き散らしながら降り続ける透明な雨は、鬱陶しいとしか思えない。

「北の空……おかしいね」

 突然、一人で森の木の枝に登って村の方を見ていたアジェルがぽつりと呟いた。
 その根元で、手持ちの竪琴を指で弾いていたラーフォスが顔を上げて北の方を見た。エフィーとジュリアも、つられるようにそちらを仰ぎ見る。

「何、あれ?」

 翡翠色をした、大きな瞳を凝らして、ジュリアは驚いた。
 村のある辺りだろうか、北のほうの空は黒く染まっていた。雨雲が黒いのは当たり前ではあるが、北の空の雲は漆黒と言っても過言ではないほど、不吉な闇の色をしていた。まるで、空から星を消してしまったような暗闇。

「あれは、まさか――」

 ラーフォスもいつに無く真面目な面持ちで、北の空を睨みつけた。どうって事の無い普通の雨だが、不吉すぎる空の色合いに、エフィーの心にも不安が過ぎった。

「早く、この森を抜けた方が良いようですね」

「どう言うこと?」

 話の見えないジュリアは、ラーフォスに尋ねた。答えは、ラーフォスではなく、木の上にいたアジェルが言った。

「あの雨雲は、普通じゃない。水の精霊が、みんな逃げてきているから……。もしかしたら、呪術で作られた物かもしれない」

 自然を司る水の精霊が逃げるということは、あの雨雲は自然に出来た訳ではない。
 誰かの悪意。例えば、人を呪う呪術によって、生み出されたものなのかもしれない。
 誰が何の意味をこめて作り出したものなのかは分からないが、その雨の雫に当たる事は得策とは言えない。無害に見えても、呪術に寄って生み出されたものは、必ず悪影響を及ぼすと言われているのだ。

「出来るだけ急ごう。まだ、こっちの方は普通の雨だから。一刻も早くこの場所から離れないと」

 それだけ言うと、アジェルは軽い身のこなしで木の上から降りてきた。腕には、雨を嫌っている緑色の子竜ミストを抱えていた。この数日、ミストは気だるそうにぐったりとしていた。アジェルが雨が嫌いらしいと説明してくれたが、どうもそれだけでは無い気がした。竜族は、人以上に鋭敏な神経の持ち主でもあるのだから。だが、それをあれこれ考えている暇はなさそうだ。
 エフィーは自身の荷物を拾い、方位磁石を取り出すと、今の場所のおおよその位置を測った。

「とりあえず、西の橋に渡るんだよな?」

 少し雨に打たれるのは仕方が無い。
 ジュリアも大人しく荷物を手にして、立ち上がった。
 一行は、雨に打たれる覚悟で、不吉な森を後にする事にした。
 迫る暗雲は、すぐそばまで来ているのだから。
 今はただ、行ける所まで行くまでだ。エフィー達は降り注ぐ雨の中、再び道を小走りに歩き出した。  






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