航海


 月は空高く昇り、蒼穹の星々が深き漆黒の夜空を彩る。
 船上はすっかり寝静まり、先程まで酔っ払った船乗りたちがふらふらと、でたらめなダンスを踊っていたのが嘘のようだ。
 物音一つしない暗闇の中、浅い眠りについていたエフィーは何か不安な夢を見ていた。
 嫌な記憶のように忘れていても刹那、頭をよぎるあの不可解な感じだ。
 闇がまとわりつく。息も出来ない、何も見えない暗闇でただ一人もがき苦しむ夢。
 あまりの気持ち悪さに、エフィーは目を覚ました。
 それなりに冷え込む夜の海の上でありながら、エフィーは冷や汗をかいていた。心拍数が気味の悪いほど早く、今にも血管を突き破ってしまいそうだ。
 体を起こして、大きく息を吐き落ち着くまで動かずにエフィーは虚空を見つめた。
 騒がしかった室内は暗く静寂に包まれていた。
 脈も正常に戻り、大分落ち着いてくると暗闇に慣れた瞳で辺りを見回す。
 好き好きに床で横になる乗客達がまず目に飛び込んできた。動く者の気配はなく、しんと静まり返っている。
 エフィーは風にでも当たろうと思い立ち上がった。
 隣で寝袋に包まれたジュリアが小さくうめき声をあげた。起こしてしまったかと内心驚くが、規則正しい寝息が聞こえてきたので、エフィーは安心したように胸をなでおろした。
 エフィーはアジェルがまだ戻ってきていない事に気がついた。そして先程まで横になっていたはずのラーフォスの姿も、そこには無かった。
 不思議に思い、エフィーは二人を探すことも兼ねて、外へと出て行った。
 外は思っていたよりも冷え込んでいた。
 上着を船室に残してきてしまった事を少し悔やみ、それでもどこかにいるはずの二人を探し始めた。
 ふわりと、柔らかな風がエフィーの濃い茶髪を撫でていった。
 と、その時聞き覚えのある音色がそう遠くない場所から流れてきた。

「これは……?」

 耳を澄ませて、聞き入る。笛の音のようだった。さざ波のように静かで透明な音で紡がれる、知らない曲だった。だが、その旋律は確かに知っている気がした。
 惹きつけられるように笛の音の聞こえる船頭へ歩くと、笛の音はよりはっきりと聞こえてきた。
 しかし、突然笛の音がやんだ。一呼吸の間を置いて、エフィーの微妙に見えない船の先端から冷ややかな言葉が投げかけられた。

「こそこそしてないで、出てきなよ」

 半日程度だったと言うのに、ひどく懐かしく聞こえる静かで落ち着いた声。
 行方を眩ましていたアジェルの声だった。
 エフィーは隠れているつもりは無かったので素直に出て行こうとした。だがそれよりも先に、エフィーとは反対側の物陰から誰かが現れた。

「ばれていましたか。いえ、綺麗な笛の音が聞こえていたので、つい聞き入ってしまっただけですよ」

 影から完全に抜き出ると、月明かりに長く美しい金色の髪が浮かび上がる。
 暗闇に潜んでいたのは、ラーフォスだった。
 ラーフォスは船の先頭に腰掛けているアジェルの見える場所まで出てくると、優雅に微笑んだ。
 どうやら見つかっていないらしいエフィーは出て行くべきか少し迷い、もう少し見ていることにした。

「夕食にも顔を出しませんでしたね。何か嫌な事でも?」

 いつもは皆と一緒に食事をとっていたはずだが、船に乗ってからは食堂に一度も顔を覗かせていない。船酔いが酷いにしても、何も食べなければ体に悪いだろう。ラーフォスはそちらの心配をして、まだ顔色の悪いアジェルに問い掛けた。

「エルフになまぐさを食べろと? 悪いけど、食事は遠慮させてもらうよ」

 その言葉に、エフィーは納得した。エルフは肉や魚を食べる事は無い。自然の恩寵である木の実や果物を主食にしていると、昔聞いたことがある。確かに船上の食事は当然の如く魚料理三昧だ。魚があまり好きではないジュリアがぶつぶつと文句を言っていたのを思い出した。

「そうですか、でも何も食べないのは体に悪いですよ」

 素っ気無くアジェルは自分の足元においてある皮の鞄を指差した。開いた口元からは赤い果物のようなものが覗いている。

「ご心配なく。別で非常食くらい持ち歩いてるから。それよりも、何か話があるんじゃないの?」

 何でも見通しと言った感じで、アジェルはラーフォスの目的を言い当てた。
 ラーフォスはさり気なく微笑むと、穏やかな声色で話し始めた。

「ええ、少し気になることがありまして。何故、レイルの事と貴方の事、エフィーさん達に教えないのですか? 色々と疑問に思っていることが多いようですよ」

 疑問には答えずにアジェルは笛を指で遊ぶように一回転させた。すると、笛は手品のように、アジェルの指から消えた。変わりに、中指に銀色の指輪が現れて鈍く光った。
 ラーフォスはじっと答えを待った。

「別に……言う必要が無いと思っただけだよ。それに名前しか思い出せない弟の事を、どうして説明できる?」

 アジェルは俯きがちに答える。ラーフォスの視線から逃れようと、アジェルはラーフォスが更に追求してくる前に、果てしなく続く水平線に視線を移した。
 これ以上聞いても、答えてはくれないと悟ったラーフォスは、話題を変えた。

「神族を……憎んでますか?」

 答えは、無言だった。
 ただ、海を見つめる淡い水色の目に今にも消えそうな光だけを灯す。

「憎む理由があるのは知っています。でも、憎しみの先には何も無い。アジェルは分かっているでしょう?」

 ゆっくりと振り返ったアジェルの瞳は、悲哀とも憎悪ともつかない暗さが浮かんでいた。普段どこか覚めた目で世を見ているアジェルでは考えられない、苦々しい感情をさらけ出した表情。
 真っ直ぐにラーフォスを見つめ、アジェルは辛うじて聞き取れるくらいの小さな声で呟いた。

「憎いだけじゃない」

 足元に転がっていた拳に力を込め、アジェルは唇を噛んだ。己を制するように、感情を抑えるように低く呟く。

「ただ……混乱を招く一族に終焉を――――」

 遠目に見ていたエフィーにも、固い決意が伝わってくるようだった。アジェルは感情というものを一切持たない人形のように、冷たい表情を浮かべていた。
 ラーフォスは、小さく笑みを浮かべた。喜びではなく、何かを悼む虚ろな笑みで。
 そして似たような言葉を言った、このエルフの弟を思い出す。離れていようが二人の答えは同じだった。片親の一族に対して仇を成す。かつては神と呼ばれた、己の中に半分流れる血の一族の滅びを願う。

「それを果たすまで死なない。グレンジェナの力を使ってもね……」

 静かな夜はゆっくりと更けていく。
 アジェルとラーフォスはそれ以上言葉を交わさずに、ただ海を見つめていた。
 エフィーはそっと気付かれないように足音を忍ばせて、船室に戻った。
 ひどく頭が混乱していて、何かを考える事は出来そうに無かった。
 ただ、アジェルとレイルが兄弟だと言う真実と、神族を憎んでいるという言葉が脳裏から離れなかった。
 心の奥底で、思い出せそうで思い出せないなにかが、ゆっくりと崩れ落ちて行く気がした。






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