航海


 潮の香りが、北からの涼やかな風に乗って吹き抜ける。
 見渡す限りの大海原を、巨大な旅客船が横断していた。帆を一杯に広げ、気持ちよいほど穏やかな風を受けて船は進む。
 船客たちは甲板に出て水平線を眺めながら微笑む。早く大陸が見えないかと、退屈そうにしている者もいれば、揺れる船に気分を悪くしてくたばっている者もいる。実に大勢の客が、この船に乗っていた。世界を行き来する旅人や傭兵、商人や出稼ぎの帰り人、それぞれ目的は違えど同じ地を目指して船に乗り込んだ者達だ。
 商業盛んなアーシリア大陸を出て、巨大な軍事力を持ち世界一広いとされるルーン大陸に向かう船に、エフィー達一行は乗っていた。ラーフォスと名乗った青年の言葉では、アジェルの探し人で神族のレイルは南の大陸に向かったという。新たにラーフォスという連れを得て、一行は出港間近の船へと乗り込んだ。それから一日が過ぎた。

「見て、羽魚が飛んでる」

 はしゃぎながら、手すりから身を乗り出して海を見ていた少女は、日陰で座り込んでいた少年に話し掛けた。
 澄んだ海は透明な青で、上のほうを泳いでいる羽魚と呼ばれる羽根を持つ魚が銀色の光を反射しているのが見える。

「羽魚?」

 少年は日陰から出てくると、少女の傍に行き同じように手すりから身を乗り出して水面を見下ろした。
 エフィーは見たことも無い魚にひたすら驚いた。羽根を持つ人や鳥は見たことあるが、羽根を持つ魚など見たことも聞いた事も無い。船を追うように楽しげに飛び跳ねる魚の飛ばす水飛沫を顔に受けながら、エフィーは目を皿のようにして魅入った。

「綺麗ねー。海の魚って川とか池のよりも大きいみたい」

「そういえばそうかもな」

 新世界にきてから、エフィーの常識は見事に九十度ほどひっくり返った。
 過酷な生態系の中で文明は急激な発展を遂げ、古来より血を残してきた翼族が普通に存在したセレスティス大陸では、翼を持つ者も機械も生活の一部として当たり前にあった。
 だが、この新世界の文明はそれほど進んではいなく、船も木製だった。機械など当然ある訳も無く、灯りはランプや燭台など火を使うものだ。同じように文明の発達したセレスティス大陸から来たエルフの少年は、種族のせいかあまり機械と慣れ親しんではいなかったようでそう言うものに驚きはしなかった。
 始めは驚きの連続だったが、今は大分落ち着き心にもゆとりが出来てきた。
 珍しいだけで追いまわされたり、信じられない料理を食べたりと新鮮な毎日ばかりで、こういう風に穏やかに空や海を眺める事なんて少なかったのかもしれない。
 爽やかな潮風が、少年と少女の髪をすくいあげて吹き抜けていく。

「なんかさ、見るもの全てが初めてのものばっかりだね」

「ん、そうだな。今までセレスティスが世界の全てだと思ってたから……でも外はセレスティスなんかよりずっと広いな」

「そりゃあ、そうよ。世界は一生掛かっても回りきれるか分からないくらい広いんだから」

 封じられて外界との接触が出来ない孤立したセレスティス。はるか昔、神々の時代でもっとも栄えた大陸ではあったけれど、それは昔話でしかない。今のセレスティスは機械仕掛けの無機質な場所に感じられた。確かに神々の遺産のおかげで、文明は栄えた。この世界でセレスティスよりも優れた大陸は無いだろう。
 だが、何かが欠けていた。
 足りないと言うよりも、初めから無かったもの。

「僕はこっちの世界の方が好きかもしれない」

 全てが新鮮で、常に目まぐるしく変化する毎日と世界。
 新しいものを与えられるのではなく、見つけるために探す。
 エフィーは旅に出て、良かったと思った。退屈で平穏な生活から、危険で心弾む毎日に正直とても満足していた。

「そう? ま、それも良いんじゃない」

 ジュリアはにっと口角を上げて笑った。
 二人はしばらく無言で海を眺めていた。光を受けて光る水面が、新しい世界の新鮮さを感じさせてくれた。

「明日にはルーン大陸に着くそうですよ」

 二人の背後から声がした。
 エフィーとジュリアは同時に振り向いた。二つの視線の先には、見事な癖一つ無い金髪を風になびかせた、美女とも見紛う青年が立っていた。手には、紙コップの何か飲み物らしきものを二つ持っている。

「明日? 意外と近いんだ。船旅も結構良い感じなのに、もう終わりか」

 残念そうに、エフィーは肩を落とした。
 ラーフォスは二人に近づくと、手にした紙コップをそれぞれに渡した。
 二人は礼を言い、それを受け取った。ラーフォスが持ってきた飲み物は、よく冷えたフルーツジュースだった。

「そんな事言ってると、またアジェルに怒られますよ」

 にっこりと微笑んで、ラーフォスは人差し指を口元に当てた。
 その言葉を聞いて、エフィーは青くなる。そう、ここにいないもう一人の連れのアジェルは船酔いのため今頃船室で転がっているだろう。気分が悪そうなのもさながら、何よりも機嫌が悪かった。あの調子では、二度と船には乗りたくないと思っているだろう。

「あぁ、そっか。これじゃあ先が思いやられるわね。まぁ、明日着くなら喜ぶんじゃない?」

 ジュリアは困ったように笑った。

「そう言えば、ルーン大陸ってどんな所なの?」

 不意に、ジュリアは気になっていた事を聞いてみた。

「ルーン大陸ですか。私もまだ行った事はない場所なんですけどね、緑の豊かな場所だと聞いています。それから、巨大な軍事国があるらしいですよ」

「軍事国? ってもしかして軍隊とかいるあれ?」

 国自体存在しないセレスティス大陸では、軍も無い。そもそも争いは人間とエルフの間で起こっているいざこざくらいで、血生臭い大陸ではない。そのせいか、エフィーには軍や国という存在が不思議に思えた。

「簡単に言えばそうです。それから、傭兵の出入りが激しい事でも有名ですね。なにやら、最近魔界のゲートが開いたとかで、その討伐とかで色々と忙しいらしいですが」

 魔族。その言葉にジュリアは眉を潜めた。
 魔族というのは、天地創造の時代から神と対立してきた巨大な力を持つ長命の種族の事だ。人と変わらない姿をしているものも在れば、獣のような姿のものもいる。
 皆が皆、悪というわけではないが、好戦的で人を喰らうおぞましい生き物というのが一般的に知られる魔族だ。種族などに偏見を持たないジュリアではあるが、どうも魔族は好きではないらしい。もっとも、魔族を好きな人間などそうそういる訳でも無いが。
 彼らははるか昔に、神に反旗を翻し戦いを挑んだ。長く続いた戦いは、神族の勝利と言う形で終わりを告げた。神々は二度とこのような事が起こらないようにと、魔族を地上界とは違う空間に創りだした「魔界」に封じ込めた。
 以来、魔族は人の世界に干渉出来にくくなった。
 魔族が地上界に来るには、巨大な力を使い、無理矢理空間を捻じ曲げて作る「ゲート」というものが必要になる。それは誰にでも作れるものではなく、また酷く脆いものでもある。
 それでも時々、力ある魔族がゲートを出現させ、地上界にやってくることがある。一度作られたゲートはすぐに消えてしまう事が多いが、稀に空間が複雑に捻じ曲がりすぎると、しばらく地上界に開いたままになってしまうときもある。そう言った場合、魔族が次から次へと地上界に来てしまう。それを食い止める事が出来るのは、やはり巨大な力を持つ「軍」なのだろう。

「魔族か。大変なんだな……」

 魔族を見たことは無いが、その恐ろしさは幼い時から聞かされている。
 ゲートが開いてしまったとなれば、さぞ大変な事だろう。

「まぁ、その場所に近づかなければ、大丈夫ですから。私達の目的は、レイルを探すことでしょう?」

 魔族を忌み嫌っている神族。その血を引くレイルだって、好き好んで魔族のいる場所に行く筈が無い。
 確かに、エフィー達の行路に、魔族のゲートはあまり関係ないのかもしれない。
 少し、安心したようにエフィーは笑みを浮かべた。






back home next