偽善の象徴
世の中には予期せぬ出来事が起きる時がある。
それは突然だったり、何かの歪みから徐々に浮き出る災難だったり、幸福だったり。
そう良く言うけれど、それらはほんの稀に起きる事で、まさか自分がそのような状況に立たされる事は無いと思っていた。だからこそ、今アジェルの前の前に立っている青年も、嘘偽りとしか思えない。しかし、それは幻と言うにははっきりしすぎているし、名を呼ぶ声は幻聴では無かった。
「ラーフォス……?」
アジェルは信じられないものでも見るように、普段は眠そうな半開きの目を精一杯見開いた。その淡水の瞳には、純粋に驚きの色が窺える。
ラーフォスと呼ばれた青年は、驚きのあまり固まっているエルフの目の前までやってきた。
「元気そうで、何よりです。アリア」
エルフの正式名称は少々長い。アジェルも例外ではなく、名前はそれなりに長い。あえて、エフィーたちに愛称の方を教えたのは、めんどくさいのとそう呼ばれるのが好きではなかったから。酷く引っ掛かる記憶の中で、誰かがそう呼んでいた。何故かその声が何よりも忌々しくて、嫌いだった。
「その名前、呼ばないで……。俺はアジェルだよ」
青年は少し意外そうな顔をしたが、それ以上追及するでもなければ穏やかに笑みを浮かべる。
「追わなくても良いんですか? あの二人を」
二人……。恐ろしい勢いで去っていった翼族の少年とその幼馴染の少女。
素晴らしいほど馬鹿な勘違いをしていた二人に、アジェルは溜息をついた。
そもそも、こんな紛らわしい格好をしているラーフォスにも問題があるのだが。
追えばとばっちりが来るのは目に見えて分かっている。
ついでに、この広い街で二人を見つけるのは困難だ。
それなら、いっそ放って置いたほうがいい。時間がたてば、二人で宿に戻ってくるだろう。
「どうせそのうち帰ってくるよ。追いかけるだけ無駄」
「そうですか」
短く相槌を打つ青年に、アジェルは視線を投げかけた。
知り合いといえば知り合いだ。三年ほど前に最後の別れを告げて以来、会う事は無かったが。記憶の中にある彼は、村によく遊びに来た風変わりな人間だ。いつも異国の服を着ていて、見たことも無い置物や玩具をくれた。そして世界各国の歌をよく歌っていた。人間でありながら、父と仲が良く、村人からも信頼されていた。
幼い時は不思議に思わなかったが、今思えばこの人物が何者なのかも知らない。
ただの旅人としてしか思っていなかった。
それに――。
「立ち話もなんだから、宿に来ない? 色々と聞きたい事があるから」
「ええ、お邪魔でなければ宜しいですよ」
動じた様子も無く、ラーフォスは頷いた。
手にした竪琴が一瞬きらめく。
昼下がり、太陽が傾きかけた頃合、二人は無言で宿への道を歩き始めた。
◆◇◆◇◆
随分長く追いかけ続けた。
前を行く少女は、普段では考えられないほど速く走り小柄な体格のためか人々の合間を縫うようにどんどん前に進んでいく。
エフィーは羽根で飛んでしまいたい衝動に駆られながら、ごった返す人波を掻き分けながらジュリアを追いかけた。ジュリアは大分先にいた。少し行った所で、右の小道にそれた。それを確認したエフィーは同じように右の小道に入る。こういう町は大体小道同士が繋がっているものだ。
案の定、人の少なくなった小道の先にジュリアはいた。
エフィーはひたすら追いかけ続ける。
そろそろ息切れがし始めた。ふとエフィーは考える。そもそも、何故エフィーが怒られるのか理解できない。何か怒らせることをした? 隣に居たのは青年で、確かに誤解を招きそうな姿をしてはいるがそれでも怒られるいわれは無い。温かい季節だったから良いが、これを寒冷のセレスティス大陸でやられれば、一発で風邪を引くだろう。
そんなくだらない事を考えつつ、エフィーはめまいを覚えながら終わりの見えない追いかけっこを興じ続けた。
◆◇◆◇◆
何故、あんな事をしたのか良く分からない。
いつもジュリアと一緒だったエフィーが誰かに取られてしまいそうで、不意に嫌な気分になった。
酷く身体がだるい。そろそろ限界を感じる足に、鞭を打つように気力を奮い立てて走る。
今止まれば、またエフィーに怒鳴り散らしそうだ。
多分、悪いのはジュリアだというのに。
よく分からないまま、ジュリアは無我夢中で走り続けた。
後ろからエフィーが追ってくるのが分かる。
少しずつ縮まる距離に焦燥感を抱きつつ、ジュリアは右の角を折れた。
薄暗い小道の風景が一変した。淡い緑の匂いが漂う。光が零れる、深緑の葉の天蓋が覆う小道。
見覚えのある光景。
そう朝エフィーを見つけた公園だ。
ふと、足を止める。
限界がきていたのも事実だが、それよりも心を癒すような美しい木々の緑に、自然に足が止まったのだ。
後ろからふらふらと走り寄ってくる足音が聞こえる。
「ジュリア……!」
息も絶え絶えに、名前を呼ばれた。
ジュリアは恐る恐る振り返ると、予想していた少年の可哀想なくらい哀れな様子に驚いた。
ジュリアが浴びせた冷水を拭きもしないで、必死に追ってきたのだろう。
びしょ濡れの髪は顔に張り付き、服も濡れたまま。
あまりの醜態に、ジュリアは思わず笑いそうになるのを必死に堪えて、あくまでも怒った風に装った。