偽善の象徴


 早朝の港町は、夜よりも遥かに静かだった。
 道行く人もほとんどいない。時々、朝帰りの中年の男を見たりする程度だ。
 こんな時間では店は開いていない所の方が多い。
 仕方が無いので、エフィーは地面に注意しながら昨夜歩いた道を辿ることにした。
 暫く歩いたが、落ちているものといえば中身のない酒瓶、紙を丸めたごみ、ガラクタなどの誰も拾いそうに無いものばかり。時々、売り物だったであろう特産物の欠片がある。
 それでも、何処を探してもエフィーの渋い鳶色の財布は見つからない。
 道には落としていないのだろうか?
 エフィーは普段、上着のポケットに財布をしまう。取り出しやすく、滅多なことでは落ちないからだ。昨日も、財布は右のポケットに入っていた。
 もし落ちるとしたら、無理な体勢をした時だ。無理な、と言っても昨夜は運動らしいものはしていないし、ましてや空も飛んでいない。なら、何故落ちるのか?
 様々な疑問が浮かび上がっては消える。
 そしてある可能性に気付いた。

「まさか、スリに遭ったんじゃ」

 こんな広い街だ。
 スリが一人や二人いてもおかしくはない。
 ましてやエフィーは普段から抜けていることが多く、スリの格好の餌食になりそうだ。本人に自覚はないのだが。
 血の気の引く頭を振って、自身に「それはない」と言い聞かせる。
 もしスリに遭っているのなら、それは最悪な事態だ。
 大金が入っている、というわけではないが、少なくともあの財布にはエフィーの全財産が入っているのだ。この数年間貯めに貯めた大事な旅費だ。
 無くしては、これから大変なことになる。
 それ以上に、ジュリアの憤激が目に浮かぶ。

「何が何でも見つけないと!」

 意気込むように、顔を両手で挟むように軽く叩くと、エフィーは記憶にある限りの道を辿り始めた。
 陽が昇り始め、人がそろそろ外を出歩く時刻。
 早い所では、店を開けている場所もチラホラ見える。
 辺りからは朝食の香ばしい匂いが漂い始めてきた。


◆◇◆◇◆


 そろそろ陽が一番高い空まで昇った頃。
 活気盛んな港町の大通りは、いつもと同じように大賑わいになり、人々が行っては来たりとしていた。
 午前中、朝食もとらずに探し回ったというのに、目的の品は未だにその影すら見えない。
 空腹と、もう見つからないのでは? という脱力感からエフィーは広場のベンチに腰を下ろした。
 少しばかり人通りが減る広場は、木と水に彩られた気持ちの良い場所だった。
 横を見れば、恋人同士が手を繋いで歩いていたり、幼い子供がアイスを持ちながら駆けずり回っていたりしている。
 騒がしい港町には、予想もしていなかった静かな場所だった。

「あー、思い出せない。何処に落としたんだろう……」

 言ってもしょうがないと理解はしていても、つい口から愚痴がこぼれてしまう。
 昨日行った場所は全て探した。
 店にも一軒一軒回り、店員にも尋ねた。
 それでも、誰もエフィーの財布を見たものはいなかった。
 一休みしようと、近くにあった公園で、腰を下ろしたはいいが、見上げれば太陽は高く上がり、今の時刻を物語っている。

「この町で働く羽目になるのか?」

 そんな事になればジュリアが黙ってはいないだろうけど。
 それでも最悪の場合、そうなるかもしれない。
 ジュリアは怒りつつも承諾してくれるだろうが、もう一人の連れは何と言うだろうか。
 まさか、エフィーの勝手な都合で一緒に足止めさせるわけには行かないが、それでも置いていかれるのは些か悲しい。
 そもそも、元凶が自分だという事に妙に腹が立つ。
 自身の不注意さが招いた事柄なだけに、激しく後悔しながら、エフィーは空を仰いだ。
 何処からか気持ちの良い風が吹き抜けていく。
 濃い茶色の髪の毛を風に遊ばせながら、エフィーは静かに瞳を閉じた。
 と、その時誰かがエフィーの隣に腰を下ろした。
 不意に目を開くと、エフィーは突然の訪問者を、横目で盗み見た。
 癖一つ無い鮮やかな金の髪を腰に届くほどまで流し、不思議な布を何枚も重ねたような服装をした女性が座っていた。
 手には装飾美しい銀色に輝く竪琴を持っている。
 俯いていたので顔はよく見えなかったが、それでもはっとするような、均整の取れた目鼻立ちをしているのが分かる。
 風変わりな服装は見たこと無いが、エフィーは何処かでこの女性に会った事がある気がした。
 少し迷ってから、エフィーは恐る恐る横に座る女性に話し掛けた。

「あの、何処かで会った事、あ……?」

 完全に言葉を紡ぎ終える前に、女性は振り向いた。
 肩にかかっていた、金糸の髪がそっと流れる。
 顔をあげた女性を見て、エフィーは驚いた。

「君は……!」

 目に飛び込んできたのは、深緑の瞳を持った綺麗な女性。
 そう、昨日エフィーが最初に訪れた、アクセサリー店の店員その人だった。
 女性は、驚くエフィーに柔らかく微笑みかけると、エフィーに向かって何かを差し出した。
 条件反射とも言うべきものか、差し出されたものを受け取ったエフィーはそれを見た。

「これは」

 よく見知っているものだった。
 今まで探し回っていた自分の鳶色の財布。
 重くも無く、かといって軽すぎる訳でもなく、なくした時のままの状態。

「昨日、箱を拾っていただいた時に、貴方が落としていったものですよ。すぐに返そうと思ったのですが……中々見つからなくて」

 申し訳なさそうに、その人は呟いた。
 その声色に、エフィーは再び驚く。女性にしてはいささか低い声。
 昨日、エフィーはこの声を聴いて、目の前に立つ人が女性でない事を知った。
 確かに、見た目は女性らしく、髪も長く伸ばして服装も限りなく中性的だ。
 昨日見たときは、フリルのエプロンまでしていたのだから、余計に紛らわしい。
 それでも、穏やかなその声は低く、背も女性にしては少し高い。
 ぱっと見たときは、その女性が青年だとは気付かないだろう。

「あ、ありがとう。無くしたのかと思って、諦めかけてたんだ」

 素直にお礼を述べる。
 危うく人生が九十度くらい折れ曲がる所だったのだ。感謝してもしきれない。
 不思議な服装をまとう青年は、『いいえ』と微笑んだ。

「何か、御礼をしたいけど……。お腹空いてない? そろそろお昼だし、良かったらおごるよ」

 正直、エフィーは相当空腹だ。何せ朝から何も口にしないで動き回っていたのだから。
 偶然とはいえ、昨日探していた人物に会えたのは嬉しい事だ。聞きたい事もある。そして何よりも、御礼がしたいのだ。

「宜しいんですか? 私も昨日はお世話になったので、おあいこですよ?」

「いや、でもやっぱ僕の方が助けられた気がするし……。あ、あそこのお店なんてどう?」

 公園を出て少し行った所だろうか、小さな可愛らしい飲食店が見えた。
 高級そうではないが、おとぎの国のようにどこか古風な、それでいて落ち着いた雰囲気がする。

「あそこのお店、若い子に人気なんですよ。良いんですか? ジュリアさんを連れて行かなくて」

 クスクスと笑う青年の言葉に、またもやエフィーは驚いた。
 何故、ジュリアの名前まで知っているのだろうか?

「あ、ジュリアは宿で待ってると思うから。アジェルも一緒だし。それよりも人気の店なら、早く行かないと! 満席になるかもしれない」

 せかすように、エフィーは立ち上がると飲食店のある方向に歩き出した。
 後ろから青年も立ち上がり、ゆっくりとした足取りで着いて来る。
 店の前まで来ると、エフィーはちらりと店内を覗き見た。
 外装は小さく見えるが奥行きがあり、それなりに広く見える。
 若い子に人気、というのも伊達ではないようで十代半ばの少年少女に溢れていた。
 まだ、満席と言うほど込んではいなかったので、エフィーはドアを押して店に入った。
 店員に案内され、席に着くとようやく落ち着いたように、出された水を一口飲んだ。
 案内されたのは、テラス側の席。外が見渡せる広い窓があり、白く清潔なカーテンが左右で結んである。
 エフィーの向かいに、青年は腰を下ろした。
 仕草の一つ一つが、ゆっくりとしていて洗練されたもののように見えるのは、恐らく気のせいではない。そういった動作のせいもあって、女性と間違えたのだろう。よく見れば、中性的な青年に見えなくも無いというのに。
 何から話してよいのか分からず、暫く言葉が出てこなかった。
 どうにかして間を繋ごうと、言葉を探すが中々出てこない。
 あれやこれやと思い浮かべているうちに、店員が注文を取りに来た。
 別のことを考えて、食事を選ぶ事すらしていなかったことに気付き、エフィーは慌ててテーブルの端っこに置いてあったメニューを手にとった。
 メニューは見たことも無い品目名だらけだった。言うなればオカルト風の言葉がつらつらと並べてある。中には、食べ物とは思えない名前もあった。

「このお店、アタリとハズレがあるらしいですから、気を付けた方が良いですよ」

 そっとメニュー越しに、青年が耳打ちをしてきた。
 アタリとハズレがある。
 そんなメニューが存在してもいいものなのだろうか?
 エフィーは呆れながらも、中でも多分一番まともそうな物を注文した。
 青年もエフィーより少し遅れて、注文をした。注文を取り終えた店員はそのまま厨房へと去っていく。
 もう一口、水を飲むと、エフィーは気になっていた事を聞いてみようと、口を開いた。






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