偽善の象徴
デューベルに滞在してから四日目の朝が来た。
朝と言っても、空の果てからようやく陽が顔を覗かせ、小鳥の囀りが聞こえ始めた頃。
街の一角にある宿屋の主人は、朝早くから客のための朝食を作り始めていた。
香ばしいスープの香りが、早朝の清々しい空気に溶け込み、人々はその芳しさに目を覚まし始めた。
二階の奥の三人部屋にいる者達も、そろそろ目を覚ますころあい。
その時、当の三人部屋から重たい物を床に叩きつけたような激しい音が響いた。
宿の近くの木に留まっていた小鳥たちは、その喧しい音で一斉に空へと飛び立っていった。
「ひとまず落ち着け、ジュリア!」
騒ぎの元凶は、片手で巨大な自身の荷物の紐を掴み、空いているもう一方の手で巨大な荷物を持ち上げていた。
落ち着けと、手を前にかざして逃げ腰になりながら必死に首を振っている茶髪の髪の少年は、何かを背にしながら抵抗していた。
「信じられない! 今日出発だって言うのに、何でなのよ!?」
「誤解だ、ちゃんと探せばあるって」
少年は背に自身の鞄を庇いながら、さらに数歩後退する。
少女は一歩、また一歩と力を込めて少年に近づいた。
「いくらアホでドジで間抜けだからって、ココまでだとは思わなかった。何で……何でよりによって財布を落としてるのよ!」
最後のほうは叫びにも似ていた。
目茶苦茶な言われようだが、エフィーに反論する権利は無かった。
ただ、必死に無実を証明しようとあたふた考える。
「だから探せば見つかるって!」
エフィーは慌てた様子で、背にした鞄を待ちあげると、口を開いて逆さまに振った。
鞄からはコンパスや地図、保存食などのありきたりな旅の道具と出納長、よく分からないガラクタなどがばらばらに出てきた。
最後に携帯用の鉛筆が落ちると、それ以上は出てこなかった。
少女はそれを見ると、荷物の紐を持つ手に力を込めた。
「探せばなんですって?」
不機嫌そうに眉を逆立て、それでも冷静を保とうとしながら、ジュリアは震える声でそう言う。
エフィーは血の気が引いていくのを感じながら、必死に思考をめぐらせた。
昨夜、あの少女趣味な店に探し人がいないことを知ると、エフィーは真っ直ぐ宿に帰ろうとした。
だが、当初の目的をすっかり忘れていた事に気付き、再び年頃の少女が好みそうな店を探し、一軒一軒品定めをしていた。だが、コレといって良い物が見つからず、またどんなものが嬉しいのかも見当がつかないので一度宿に戻ったのだ。
宿では、夕食時間を少し過ぎた時刻だと言うのに、二人の連れはぐっすりと熟睡していた。
起こすのも酷だと思い、仕方なくエフィーも大人しく寝台に入った。
そこまではしっかりと覚えている。
それならば何故、財布がなくなっているのか?
「まさか、道端にでも落としたんじゃないわよね? エフィー」
青筋を浮き上がらせて微笑む少女は、あの盗賊よりも恐ろしいもののように見えた。
エフィーは昨夜、買い物をしていない。それなら落としたのだと考えるのが普通だ。
「あー、まあ……なんて言うか……」
視線を横に流しながら、エフィーはしどろもどろに言葉をつなげようとしたが、それよりも早くジュリアの一喝が再び部屋に響いた。
「素直に吐きなさいよ!」
「――無くした……かも」
エフィーはすまなそうに頭を低くして、小さく呟いた。
予想通りの言葉に、ジュリアは怒鳴りつける気も失せてしまった。
深く溜息をつく。
気まずい空間に、一人だけいつもと変わらず毛布に包まりながら寝返りを打つ少年がいた。
頭まですっぽりと毛布に包まっているので、起きているのか分からない。
エフィーとジュリアはぎくりとしたように、ぎこちない動きでモゾモゾと動く、一番端のベッドを見た。
「……煩い」
毛布から腕が出てきた。
続いて、淡い銀と紫の硝子の様な髪の毛が覗く。
二人が成り行きを見守っていると、最高に機嫌の悪そうなエルフが毛布を押しのけて顔を覗かせた。
「おはよう、アジェル」
冷や汗をかきながら、ジュリアは微笑んだ。
エフィーも真似するように朝の挨拶をする。
アジェルを朝から刺激するのはあまり得策ではないのだ。
この少年、見た目を裏切って朝だけは、誰よりも機嫌が悪い。
三人の中で起きるのも一番遅く、無理矢理起こすと最悪、ナイフが飛んでくる。
俗に言う低血圧だろうか。
船酔いはするし、朝は役に立たない、挙句に無意識凶器とくればさすがの二人も閉口する。
「朝から何? 痴話喧嘩なら外でやれよ……迷惑だから」
外の方が迷惑になるが、このエルフはそんな事お構い無しだ。
「だって、一大事なのよ。今日出発するのに、エフィー、財布無くしてるんだから」
悪いのはジュリアではない。
ぺらぺらと、ジュリアは事情をアジェルに説明した。
エフィーはその間、小さくなりながら何処で落としたか、必死に考えた。
昨夜、エフィーが回った店は全部で五つ。
その中で物を落としそうな場所はあまり無かった。
それでも、手掛かりは何もないのだ。店と歩いた道を探すしかない。早朝なら、道もそんなに混雑はしていないだろう。
「――という訳よ。もうエフィーのバカ……ってエフィー!?」
説明し終えたらしいジュリアは、視界の端に部屋を出て行こうとするエフィーを見た。
何か焦っているようで、呼び止める前に部屋から出て行ってしまった。
「ふーん、今日もまた出発できないね。ま、行く所なんて分からないけど」
驚いた様子も無く、アジェルはそう呟いた。
その瞳はまだ眠そうで、小さく欠伸をするとアジェルは再び毛布に包まった。
「ちょっと?」
やる気のないその行動に、ジュリアは躊躇う。
エフィーを追うべきなのか、それとも待つべきなのか。微妙な所だった。
「……朝食、食べたら追いかけよ」
ジュリアが慌てても、騒いでも今の状況は改善されない。
それならば、待っていればいい。そう思い、ジュリアは洗面台へと向かった。
後ろから、アジェルのベッドで丸くなっていた、小さな生き物が小さく泣き、毛布に包まれたアジェルは安らかな眠りへと、再び迷い込んでいった。