三つの命令


 人は知らない。
 かつて、一つの大きな戦争があったことを。
 たった一つの、尊い宝玉を奪い合うために起こった争いを。
 長い長い年月と共に、それは人の記憶から消え去っていった。
 今では、神話として語り継がれる、過ちを記した物語のみが消え行く神の存在を物語る。
 人は忘れてしまったのだ。在るべきものも、過去の過ちも、そして神と呼ばれる一族がいたことも。
 その一族が、未だに世界を監視していることを、人は知らない。


◆◇◆◇◆


 地上界とは異なる空間に存在する天界、魔界、そして精霊界。
 それらは空間を繋ぐ魔術によって各々の世界へと行き来する事が出来る。
 いつからそうなったのかは伝えられていないけれど、その場所へ行く方法は確かに存在した。
 人が望めないのは、たったひとつ。地上界と同じ空間に存在する、神界と言う幻の世界。
 人の記憶から次第に消えてはいったけれど、確かに神族の住まうその場所は存在した。  そして、その地では忘れ去られた一族が未だ存在するのだ。
 遥かな時を越えた今でも、忘却の地にひっそりと「神」はいた。

『地上界で動きがあった……』

 薄暗い神殿の最深部、冷たい色で彩られた無機質な部屋の真ん中で、床より遥か高い位置に設けられた装飾華麗な玉座に腰を落ち着けていた人物が、呟くように口を開いた。
 その声は神殿と同じ、低く冷たく感情が込められない声音。まるで氷の湖のように澄み渡っていて、それ故に人を近づけさせない何かがある。
 静まり返った部屋の入口付近には、二人の人影があった。
 一人は穏やかな表情をした、金髪碧眼の牧師と言うに相応しい感じの青年だった。緊迫したこの神殿には些か場違いなほど、青年は柔らかく微笑んでいて温かな感じがした。それを表すかのように白く美しい輝石が額の真ん中に輝いている。繊細な造形をした面持ちは、まるで女性と見紛う様だけれど、浮かべる表情はやはり男性のものだった。
 対照的に、反対側には青年と同じ金髪に、つりあがった切れ長の翡翠色の瞳を持つ女性がいた。女性は青年とは違い、滑らかな身体の線を細身の服ではっきりと表し、その表情と同じく刺々しい感じがした。高みの玉座に座る人物を睨みつけるように、きっと見上げている。今にも飛び出して食って掛かりそうな剣幕ではあるが、彼女はそれほど愚かな人種ではなかった。
 けれど、その視線に気付いていないのか、または気にもとめていないのか、玉座に座る人物は再び重々しく口を開いた。

『セレスティスの中心……神の塔より結界が消えた……。決して破れぬようにと古代神がかけた結界がな。あの結界を破れるものはたった一人。結界を作り出した古代神本人だ』

 人には無い力で、きつく封印された神の塔。
 それは遥か昔、神と人との争いの終わりの地。
 どんな望みも叶えられると囁かれる、蒼き宝玉の眠っていた場所。
 争いの後、古代神は他の神に悟られぬうちに宝玉を封印した。
 誰の目にもつかぬようにと。二度と、愚かな争いがおこらぬようにと。
 そのための結界が、何者かに破られたのだ。
 それが出来たのは只一人。封印の呪いを施した古代神本人だ。
 だが、古代神は昔、大罪を犯しその制裁を受けた後、この神々の世界へ永久に封印された。
 古代神は既に、地上界にはいない。

『それは在り得ない。古代神リアはこの私、風神と光神の手で葬ったのよ。そして、リアが残したあの二人の御子も……生きているはず無いわ。三年前に、封印の森は何者かに滅ぼされたのだから』

 明朗とした声色で、自らを風神と名乗った女性は言った。
 古代神は既に封印され、今は神界の果て、氷柱で永遠の眠りについている。
 そして彼女が残した二人の子供も、今となっては生きてはいない。
 三年前に、何者かによって封印の森は襲撃された。神族が天使達に偵察に行かせた時には、すでに生存している者はいなかった。森には魔族の残骸と、無数の墓標のみが残されていた。
 誰が、殺された者達を弔ったのかは分からないままではあったが、森で生きている者達はいなかった。

『しかし、神の塔の封印が解かれたのは事実。あの塔には宝玉がある。力を失ったとはいえ、あれが人の手に渡るのは許されないことだ』

 また過去の過ちが繰り返されるかもしれないのだから。
 神と呼ばれる一族は、それを防がねばならない。
 これ以上の犠牲が無いようにと、手を貸さねばならない。それが至高の一族と呼ばれた彼らの成すべき事だった。

『もし、何かの悪戯で彼らが生きているのならば……』

 言葉は途中で途切れた。
 玉座に座る人物はすこし考えてから、再び言葉を繋いだ。

『始末せねばならない』

 たとえ古代神のように罪を犯してはいなくても、地にのさばらせておくのは危険だった。
 古代神が大罪を犯したように、その子供たちも過ちを生むかもしれないから。
 罪が無くても、危険な存在は早いうちに消しておくべきなのだ。
 それが世界を守る神の決断。

『お待ちください』

 冷たい口論の中、沈黙を頑なに守っていた青年が、口を開いた。
 浮かべる表情は、どこか切なる望みを持つ者の様だった。

『たとえ、危険であったとしても彼らを無理に刺激するのは良くない事。ましてやあの双子のうち一人は何の力も持たない地上人……。これ以上、あの二人に構うのは……火薬庫に火をつけるも同じこと。罪は古代神が贖ったのです。それ以上に何を望むのですか?』

 悲哀に満ちた声で、青年は静かに説き伏せるように言う。最もな意見ではあったけれど、それに私情が混じっていることを、玉座に座る者は見抜いていた。
 青年は前に一度、古代神の双子の御子に会った事がある。まだ幼く、物心すらついていないような歳ではあったらしいが。その時、彼と風神と名乗る隣の女性は、古代神を御子たちの見ている前で封印した。痛みすらも凌駕した、永遠の苦しみを与える封印を施したのだ。
 どれほど、二人の御子が傷ついたかなど知る由も無いが、この青年――光神は罪悪感を抱いている。
 これ以上、優しい心を持つ青年は、罪を犯した神の子供たちを苦しめるのは耐えられないのだろう。
 ましてや力すら持たない、哀れな双子の片割れすらも殺めるなどとは。

『光神、お前の気持ちは分からないでもないが、どの道あの双子は我らに牙を向くだろう。三年前、あの村を襲ったのは我らでなくとも、我らに関係する者達だ。一人は何の力も持たなくとも、もう一人は古代神と同じ力を持っている。その様な存在を、放っておく訳には行かない……』

 危険は根から摘み取るべきなのだ。
 光神という立場にあっても、決断を下すのは他の誰でもなく、玉座に座る人物だった。
 誰もが崇拝し、恐れた最高神。
 玉座に座る人は、他の誰でもなく第一神である時空神だった。
 第二神である属性神の一人、光神はそれほど大きい発言力は無い。
 全てを決めるのは、世界に四人存在する最高神だけだ。
 しかし、今この神界に残りの三人の最高神は存在しない。
 創世、刻、古代、そして時空神の四人は最高神と言われていた。
 神族をも揺るがす大戦の後、最高神は一人、また一人と神界より姿を消していった。最後に残ったのは時空神只一人だけ。
 それ故に、神界の実権は時空神が手にしたことになる。誰も、最高神であり、只一人の第一神である彼の意見を曲げることは出来ないのだ。

『でも、私達神族は神界より外へ出ることは出来ません。あの戦争の終結時に受けた、宝玉の呪いにより、私達は他の世界への干渉が出来ないのではありませんか? たとえ貴方でも……それは無理なのでは?』

 神族と言えど、完全ではない。
 巨大な力を持ち、不老不死の命を持つ彼らも、宝玉の力には抗えなかった。
 過去の戦争による痛手は、地上界の者だけが受けた訳ではない。
 彼ら神族もまた、神界に封じられる形で今に存在する。
 宝玉の呪いは、神族と呼ばれる者達を神界へと繋ぎとめている。それは重たい枷となって彼らの自由を奪い去った。

『確かに我ら神族には、あの者達に手を出すことは出来ない。ならば天使を向かわせるまでだ』

 神ではない天使ならば、他の世界へ干渉する事は容易い。
 時空神は一回言葉を切ると、口元に手を当てた。
 少しの間を空けてから、再び言葉を紡ぐ。

『……いや、適任者がいる……。刻人を使おう』

 時空神は薄っすらと笑みを浮かべた。
 暗がりに隠れて誰も気付きはしなかったが、その完璧な造形をした表情は確かに微笑んだ。
 天使ならば、命を下せば自由に地上界へ行くことが出来る。
 神族とは違い、彼らは呪いを受けてはいない。
 そして天使の力はそれなりに期待が出来る。まず、しくじることは無いだろう。
 だが、天使よりも時空神は《刻人》を使うと言った。
 刻人とは、神と天使の狭間の存在。最高神、刻神により生み出された神の眷属だ。
 歴史を管理し刻む刻神の目となり足となり、世界を監視してきた一族。
 刻神が姿を消した後も、最高神である時空神の命令は忠実にきいている。
 天使よりもずっと高い能力を有する彼らならば、決して失敗することは無いだろう。
 何よりも、刻人にはある特殊能力がある。
 それは一人一人異なるものだが、たいていの者は時空間を操る能力がある。
 もしかしたら、その力が役立つかもしれない。

『ルカを呼べ』

 時空神は短くそう言うと、無機質な漆黒の瞳を風神に向けた。
 風神は小さく溜息を吐くと、片手を前にかざした。ゆっくりと開かれた拳から柔らかな風が巻き起こったと思うと、風はうなりをあげて風神の前へ移動し、翡翠の小さな竜巻を起こした。
 翡翠の色が一瞬光ったかと思うと、風は消えた。そしてその場所には、一人の少女がぼんやりとしたまま立っていた。
 淡い水色の艶やかな髪をうなじの辺りから編み背中まで流している。十代前半と言った所だろうか。酷く幼い身体と顔は歳相応だったが、浮かべる表情は人形のようだった。
 何処までも深く澄んだ深紅の瞳は、何もかも見通しているように冷たく近寄りがたい何かがある。
 手には自身の背よりも高い、銀の十字架を象った杖を持っていた。
 少女は、上目遣いに時空神の姿を見つけると、麗しく礼をした。その無表情とも取れる、感情のこもらない面持ちのまま。

『御呼びでしょうか、時空神クロノ様』

 小さな声は鈴のようによく響き可愛らしい子供のようだが、口調は全く持って子供らしくも無い。
 まるで機械仕掛けの人形のよう。

『ルカ、お前に今から三つの命令を授ける。心して聞くように』

 少女は沈黙を答えとして返した。
 つまり、命令を聞くということだ。

『一つ、古代神の御子の二人を見つけ出し、抹殺せよ。二つ、行方を眩ました創世神、刻神を探し出せ。三つ、古代神の神石を探し、神界に持ち帰ること』

 あくまでも感情のこもらない言葉を、無表情な少女へと投げつける。
 少女は少しの間を置いて『御意』と短く呟いた。

『何故……古代神の神石を?』

 不意に疑問を持った風神が問い掛けた。

『宝玉の秘密を知っているのは古代神のみ。恐らく、古代神の御子が持っているだろう……。たとえ今、宝玉を我が手に戻しても、何の役にも立たない石ころに過ぎない。ならば古代神の記憶を探るまで。宝玉を封じたのは他の誰でもなく古代神なのだからな』

 神の持つ神石は、言わば神自身だ。
 その石には記憶、力が存在する。神石を手にしたものは、神の力を手にすることにもなる。
 普段、神石は決して神族の肉体から離れることは無い。
 光神の場合、額の真ん中に神石は輝いている。そして風神には右の手の甲に淡く澄み渡った翡翠の輝石がはめ込まれている。
 それは彼らが神族だと言うことを表し、その力の源でもあるのだ。
 古代神は封印される前に、神石をどこかに隠した。
 それ故に、彼女の考えていたこと、記憶、力は全て行方が知れないままだ。

『神石は持ち帰り、二人の神を見つけた暁には、無理はせず速やかに帰還せよ。そして、古代神の御子は必ず殺せ。命を果たすまでは、戻るな』

 静かに、冷たく紡がれた言葉。
 光神は誰にも気付かれないように、その場から姿を消した。
 居心地が良くなかったのだろう。

『必ず、ご期待に添いましょう』

 平然と少女は受け入れた。
 何も映さない深紅の瞳で、時空神を見つめながら。
 ほんの一時の間を置いて、少女は身を翻した。
 そしてそのまま影と同化するように、ゆっくりとその姿は消えていった。
 空からの刺客は放たれた。
 少しずつ、運命の歯車は回りだす。
 何も知らない者達を巻き込みながら……。






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