白い翼


 誰もが動けないまま、夕闇に浮かぶ「天使」は金色の円月を背に、エフィーたちの見える範囲まで舞い降りてきた。

「また馬鹿な神界の刺客かと思えば……ただの人間か。どういう理由か知らないが、人の眠りを妨げたことを後悔することだな」

 抑揚の無い冷たい口調でそういうと、その人物は片手を振り上げた。
 月光に照らし出された白い手に、風が集う。鋭い旋風が巻き起こり、纏わり絡みつく。
 一瞬、手のひらで凝縮したそれは、うなりを上げて風の刃となり、宙を舞い始めた。
 それは魔術師の扱う魔術に酷似していた。大気の力を操る精霊術があることぐらい、エフィーも知っている。そして大概の魔術は、人の指先から放たれるものだとも。
 だが、目の前で起こっている現象は、魔術とは似ているようで全く違うものだった。そう、宙に浮く人物は魔術を発動させる言葉を口にはしていない。精霊を呼ぶ言葉を口にしていない。それは人にはあるまじき事。地上に許されたどんな「魔術」にも当てはまらない、神々の時代に存在したという禁断の魔術を連想させる。

「何なんだ、お前は!?」

 突然の訪問者の異端な行動に、ラドックは声を絞り上げた。
 尋常ではない大気の波に、灯台の窓際に立っていたラドックの身体が僅かに揺らぐ。大柄な体躯は風圧に押され、床を踏みしめる足は彼を支えきれずに震えている。地に伏している状態のエフィーでさえ、凄まじい風に身を強張らせた。ジュリアのように小柄なものならば、簡単に吹き飛ばされてしまいそうだ。
 一体、何が起ころうとしているのか、ここにいる者には見当もつかなかった。ただ、それが危険だと言うことは、誰もが感じとっていた。

「お前に名乗る意味なんて無いな。そんな事よりも……今すぐ俺の前から消え去れ」

 そう言って宙に浮かぶ人物は、大気を凝縮し光を纏った風の刃を、腕ごと振り下ろした。
 光は灯台の前で弾け、眩いばかりの光線を発した。

「伏せろ!!」

 危険だ。
 何故だか分からないが、エフィーはそう思った。  咄嗟に、エフィーは突然の出来事に呆然とするラドックの足を引っ張り、床に頭を押さえつける。
 エフィーの声に、はっと我を取り戻したラドックの部下たちも頭を低くする。
 眩い光は風を集め、瞬時に空を切り裂く刃となって、灯台を襲った。
 ひゅっと風の鳴る音がしたかと思うと、鋭い閃光がエフィーたちの頭の上を駆け抜けた。
 石を積み上げて作られた灯台に、刃物で切ったような真っ直ぐの亀裂が走った。それはエフィー達の頭上を掠め、天に向かっていたラドックの赤毛を切り上げた。
 石の砕ける音とともに天井から拳大ほどの石つぶてが無慈悲に降り注ぐ。
 ラドックが憎々しい相手だと言うことすら、今のエフィーの頭には存在していなかった。
 ただ、目の前で繰り広げられた行為は、人を傷つけるもの。
 無我夢中で、エフィーはその命を庇っていた。
 風音がやんでも、瓦礫は降り積もり続けた。そして、降り積もるものがなくなる頃には、エフィー達は完全に瓦礫の下に埋もれてしまっていた。
 見晴らしの良くなった灯台を、宙に浮かぶ天使は静かに見下ろした。

「……くだらない」

 吐き捨てるように呟く。その瞳には、人間に対する侮蔑の感情が宿っていた。
 瓦礫をのっけたような崩れ掛けの円筒形の建物には、動くものの気配は無かった。
 再び訪れた静寂に、宙に浮かぶ天使は身を翻した。
 刹那、背後から瓦礫が崩れる音とともに、翼をはためかせる音が聞こえた。

「待て」

 未だ傷跡を残し紅く染まっている羽を広げたエフィーは、立ち去ろうとしている天使を呼び止めた。
 天使は動きを止め、視線だけを後ろへ向けた。

「君は……一体何者だ!? それに……何故、翼が?」

 存在全てが異端な目の前の少年に、エフィーは疑問をぶつけた。
 そう、いるはずが無いのだ。この大陸では、翼を持つ者など。
 それだけではない、この少年は神界の刺客と言った。神界とは、遥か昔より伝えられている、神々の住まう世界の事だと伝えられている。その場所からの刺客とは、一体どういうことなのだろうか?

「言っただろう、お前等に名乗る名前なんて無い。俺が翼を持っているのは、生まれた時から在るからだよ」

 月を背にしているため、その天使のような少年がどんな顔をしているのかは分からない。だが、、淡い光に照らされている髪は、月の色と同じ金。冷たい声色は、人間とは思えないほど無機質で、けれど低すぎもしなければ高くも無い静かな音。広げられた翼はエフィーの翼よりも大きく、透き通るほどに白く美しい。エフィーの知る翼族の中に、これほど美しい翼を持つものはいないだろう。

「生まれた時から……、君は『天使』なのか?」

 もし、地上に翼ある民が翼族以外に存在するのなら、それは神の御使い天使だけだ。天使は人と変わらない姿をし、時々世界の様子を見るために地へと舞い降りることがあるという。そんな伝承を聞いた気がして、エフィーは問いかける。
 目の前で悠然と純白の翼を羽ばたかせる存在は、天使なのだろうか?
 すると少年は小馬鹿にしたような笑い声を上げた。まるで嘲るような瞳で、エフィーを見下ろす。

「天使……? 馬鹿にするなよ。あんあものと一緒にされるとはな。馬鹿な地上人に免じて一つだけ教えてやるよ。俺は天の破壊者。光狼の名を破壊神より授かった者だ」

「光狼……?」

 聞いたことは無い。それに天の破壊者とは一体何なのだろうか。
 混乱してきたエフィーに一瞥をくれると、素早く身を翻し、天使はその場所から飛び去っていった。
 エフィーは、呆然とその後姿を見るだけだった。


◆◇◆◇◆


 一瞬空が光ったかと思うと、灯台の周りを風がうなりを上げ吹き荒び、そして風が消えたときには灯台の天辺は瓦礫の山となっていた。
 その光景に、ジュリアは思わず歩を早めた。早歩きだった今までよりも早く、小走りの状態で灯台へと向かう。
 後ろからミストを肩に乗せたアジェルが灯台を凝視しながらついてきている。

「アジェル、灯台で何があったのかしら」

 走り続けていたジュリアは大分息が上がってきた様子で、途切れがちに言葉を紡いだ。
 アジェルの方はまだまだ余裕のある感じで、灯台から目を離そうとはしなかった。

「分からない……でも、何か嫌な予感がする。あの風は精霊の力で起こされた訳じゃない。あれはきっと……」

 思案にふけるように、言葉を止める。
 ジュリアにも、灯台の上部で起こったことが、普通ではないことぐらい分かる。
 そして、灯台に近づけば近づくほど、精霊の気配が消えてゆく。
 まるで、精霊たちがその場所から逃げてしまったように。
 嫌な予感がする。その言葉はジュリアも感じていた。
 言葉が途切れた二人は、さらに歩調を速めた。
 灯台にたどり着くと、上から小さな瓦礫が時々思い出したように降ってきた。
 二人は階段を駆け上がると、一気に最上階まで上った。
 最上階の一歩手前、巨大な瓦礫が階段の出入り口を塞いでいた。
 ジュリアは両手で瓦礫をどけようとするが、力が足りず瓦礫は少し動いただけだった。
 アジェルが手を貸すと、巨大な瓦礫は少しずつだが、動いた。完全にどけることが出来ると、ジュリアは待ちきれないと言うように、階段から這い出た。
 一番に目に飛び込んできたのは、見通しの良くなった灯台から見える、巨大な金色の月だった。
 そして、赤い翼を広げ、両手を縛られたまま呆然と立ち尽くしているエフィーがいた。

「エフィー!?」

 嬉々とした声で、立ち尽くす少年の名前を呼ぶと、ジュリアはエフィーの元へ駆け寄った。






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