白い翼
無機質な鼠色の石垣を積まれて造られた灯台は、予想通り長い螺旋階段が続いていた。
両手を縛られているため上手く歩けなかったが、それでもエフィーは上り続けた。
終わりなど訪れないと思っていたが、上り始めて半時も経った頃ようやく先が見えてきた。
見上げると、灯台の天辺から薄っすら月明かりが差し込んできていた。
エフィーは外を見渡せる場所まで来ると下を覗きこんだ。地上まで相当な距離があり、落ちればひとたまりも無いだろう。
少し遅れて後ろから赤毛の男がやってきた。相当疲労したらしく、腰を曲げてだらだらと引きずるように歩いてきた。
部下も同じような状態で、逃げ出すのは容易に思われた。
「おい、誰もいねぇじゃねぇか」
ようやく気付いたらしく、ラドックは辺りを見回した。
誰もいるはずは無い。いたとしてもそれはエフィーの知らない一般人だ。
ラドックは怒りを押さえきれずに、恐ろしい形相で怒鳴りだした。
「てめぇ、騙したな……?」
騙された事にようやく気付いたラドックはエフィーを捕まえるべく、手を伸ばした。
だが、その手は空気を掴んだだけだった。
エフィーは軽々と窓際に立つと、余裕たっぷりの笑みを浮かべた。
「まさかこんな単純な手に引っ掛かるとは思わなかったな。お陰で楽に逃げられるけど」
両手は縛られたままだったが、空へと飛び立つ準備は完璧だった。
エフィーは背中に翼が広がるようなイメージを頭で浮かべた。すると半透明の翼が少しずつ具現化されてきた。
ラドックはそうはさせないと、勢い良く窓際に立つエフィーに掴みかかった。
「させるか!!」
「――っ!」
突然の出来事にエフィーは飛び立つことが出来なかった。
いや、飛び立てなかった。
ラドックは捨て身覚悟で、窓から一歩踏み出そうとしたエフィーを追いかけてきたのだ。もし、エフィーが飛び立っていれば、ラドックは窓からまっさかさまに落ちていっただろう。
自分の甘さ加減に呆れつつも、エフィーは今の状態を何とかするので精一杯だった。
ラドックはエフィーの足に抱きついていた。
辛うじて窓に足が引っ掛かっているが、その無理な体勢は長くは続かない。
エフィーも重量のある青年が足にくっついているので、上手く翼を羽ばたかせることができずに、危うい状態で空に浮いていた。
必死に羽ばたかせて、空へと舞い上がろうとするが、ラドックは腕に力を込めて、離すまいとしている。
すぐにラドックの部下たちが駆けつけてきて、ラドックのギリギリで引っ掛かっている足を引っ張った。
「うわっ! 離せよこの馬鹿」
足を振り、何とか逃れようとする。
だが抵抗も虚しく、ラドックはエフィーの足を抱えたまま窓に出戻っていった。
このままでは再び捕まるだろう。
そして売りさばかれるのだ。
「くそ、離せ――!」
絶叫ともいえる叫びにも似た声を張り上げ、エフィーは渾身の力を込めてラドックにつかまれていない足を振り上げた。
ラドックの部下を蹴り飛ばすことは出来たが、肝心のラドックは引っ付いたままだ。
しぶといにも程がある。
エフィーは憎々しげにラドックを睨み付けた。
「何が神族だ、笑わせんな。二度も俺を馬鹿にしやがって……覚悟しろよ」
二度も馬鹿にした覚えは無いが、今はそんなことに一々反論する余裕は無かった。
「わっ」
足を引っ張る力が更に強くなり、エフィーは空から床に勢い良く叩きつけられた。
そしてラドックは窓を背後に庇い、エフィーを見下ろした。
逆行に照らし出された赤毛が、毒々しい獣のように見えた。
エフィーは頭の中で、今の状態が恐ろしく危険だと言うことを感じた。
「いもしねぇ神族よりも、てめぇを売った方が金になるからな。今夜じゅうに売り払ってやる!!」
只でさえ大きい口を目一杯開き、ラドックは怒鳴り散らした。
そしてエフィーのほうに近寄ってくる。
あと一歩、エフィーに掴みかかるはずだった手が、急に止まった。
突然、窓から覗く満月の光が、より明るく輝いた気がした。そしてそのまま、一気に暗くなった。
「?」
窓の月明かりは完全に遮断された。
ラドックは驚いたように動きを鈍らせ、一時的に止まった。
エフィーは目の錯覚ではなかったことに気付くと、窓の外を見つめた。近づいてくる危険も気にならなかった。
窓から、何かが出てくるような気がして、その場を見つめる。
すると、どこからか声がした。
「うるさい……」
エフィーの発した言葉ではなかった。
ラドックでもなければ、その部下たちの声でもなかった。
窓の外から紡がれた言葉は静かで、透明感のある声。どこかで聞いたことがあるような、ひどく懐かしい声だった。
でもエフィーはこの声を聞くのは初めてだったが、誰かの声に似ているような気がした。
「誰だ!?」
驚いたラドックは窓を振り返ると、窓を覗き込んだ。そして絶句する。
エフィーも外を見やると、その光景に驚きを隠せず、目を丸くして魅入った。
一番に目に飛び込んできたのは純白だった。
柔らかく空を舞う純白。その一片が窓から部屋にふわりと舞い落ちてきた。
「これは……羽?」
そう、羽だった。真っ白で、穢れを知らない純粋な色。
鳥の羽にしては、随分と大きい。丁度、エフィーの羽と同じくらいの手のひらサイズだった。
しかし、それはありえるはずが無い。この大陸に翼族は存在しないのだ。それはラドックの態度と行動で分かっている。
ならばこの羽は一体何なのだろうか。
「お前たちが神族神族と煩いから、目が覚めたんだよ」
ばさっと屋根の辺りで羽ばたくような音がした。
次の瞬間、雲から出てきた月が、金色の光を窓へと運んだ。
暗闇に慣れかけていた瞳が一瞬眩む。だが目を閉じはしなかった。
そう、月明かりと共に視界に飛び込んできたのは、月よりもなお鮮やかで美しい白い光だった。
逆行に照らし出された、「天使」のシルエット。
その場にいたものは、息を呑んで成り行きをただ呆然と見ていた。