白い翼


 ポツリと、水滴のようなものが地面で弾ける音が聞こえた。
 薄っすらと差し込んできた光にエフィーは自分のおかれた状況を整理しようとした。
 だが、思い出そうとしても何も思い出せなかった。
 最後にある記憶は暗い裏路地で宿へ帰ろうと身を翻した所までだ。
 その後のことはどうやっても思い出すことが無かった。
 それに酷く頭が痛む。丁度後頭部のあたりだろうか。手で状態を探ろうとしたが、冷えているのか感覚が無かった。そして、思うように動かせない。
 ようやくエフィーは自分の置かれた状況を判断できた。仰向けに倒れている体は身動きが出来ないように縄で巻かれ、手は血の気がなくなるほどきつく縛り上げられていた。
 宿を出る時に刃物や道具を全て置いてきてしまったことを今更ながらに後悔する。少なくともナイフの一本でもあればまた状況は違ったものになっただろう。
 せめて自分のいる場所はどこなのかと、身体をひねり周りを見回した。
 狭い部屋だった。鉛のような色合いの薄汚れた壁と天井。壁には導管などが取り付けられていて、そこが普通の部屋ではないことを物語っている。
 灯りこそついてはいなかったが、窓から柔らかな光が差し込んでいたので部屋は真っ暗とまではいかない程度の明るさを保っていた。
 多分、昼の灯りではなく、宵の星達がきらめいている灯りだろう。そしてそのことが、今のおおよその時間をエフィーに知らせてくれた。

「ここは一体……? それに僕は何を」

 何故縛られてこんなに黴臭い薄汚れた場所に転がっているのだろうか?
 そして辿っても辿っても思い出せない記憶はどうしてだろうか。様々な疑問を思い起こしながら、エフィーはひたすら考えていた。
 だが、いくら考えても答えはない。諦めたようにエフィーは仰向けになって瞳を閉じた。
 暴れた所で、この状況がどうにかなるものでもない。成り行きに身を任せるのみだ。

「それにしても……アジェルの奴どこいったんだろ? あー、せめてレイルの特徴くらい聞いておけばよかった」

 前に聞いたレイルの事は、神族であること。まだ若いこと。エルフの村出身。それくらいだ。
 どういう風貌で、どういう性格かエフィーは全く知らない。当たり前と言えば当たり前だが。
 ただ、レイルのことを話しているアジェルは少しおかしな感じがした。
 知っているはずなのに、知らないような、そんな拭いきれない違和感。
 嘘を吐いているようではなかった。だが、ひどく曖昧に話すのが引っかかった。
 聞きたいことが一杯ある。
 それを果たすにはまず、このどうしようもない状況を何とかする必要があり、エフィーは再びどうしようか考え始めた。
 考えた着いた先は、暴れることだった。


◆◇◆◇◆


「お頭、何だか地下室が騒がしいみたいですけど」

 部屋と呼ぶにはいささか無理のある無機質な鉛色の空間の中、お茶を運んでいた青年がソファーで寛いでいる赤毛の青年に声をかけた。
 赤毛の青年、ラドックは読んでいた雑誌から目を離し、部下を見据えた。

「地下室がぁ? 天使様のお目覚か?」

 嘲笑うかのように口角を上げると、ラドックは身を起こした。
 予想より遥かに簡単に捕まってくれた茶髪の平凡な少年。それにどれだけの価値があるか、人々は知らない。
 だが、ラドックは知っている。それが人とは違う、至高の一族だと言うことを。
 昔から聞いていた神話の一部に存在した"天使"という一族。
 それが今、自分たちの手中にあるのだ。笑わずにはいられない。

「ちょっと挨拶にでもいってくっか」

 軽く言い放つと、散歩にでも出かけるように軽い足取りで地下室への扉へ歩いていく。
 扉の向こうからは、喧しいほどの声と激しく壁を蹴っているような音がした。
 捕らえた"天使"が暴れていることが容易に想像できる。

「ちゃんと入口見張ってろよ」

 部屋にいた数人の部下にそう言い放つと、ラドックは地下への階段を下りていた。
 残された青年は、手にしていたお茶を一口飲むと、「はいはい」と相槌を打ち、見張りの為に外へと出て行った。
 部屋に残されたのは、ほんのりと甘い香りを漂わす飲み掛けのお茶だけだった。


◆◇◆◇◆


 地下室で騒いでいたのは予想違わず、翼ある民の少年だった。
 両手足を縛られているにもかかわらず、必死に全身のバネを使って壁を蹴っていた。そしてその口からは絶え間なく何かを叫び続けている。
 一言で言えば、煩かった。

「うるせぇな、少しは大人しく出来ないのか」

 耳を塞ぎたくなる様な大声に、ラドックも怒鳴り返す。
 エフィーはラドックの姿を見つけると、更に大きい声で怒鳴りつけた。

「やっぱりお前か! 早くここから出せよ、大体何で僕を捕まえたりするんだ」

「何でって、そりゃあお前が価値ある商品だからだ」

 価値ある商品。エフィーには自分がそんな価値があるなんてとても思えない。ただの一般翼族だ。
 捕まる覚えも、商品扱いされる覚えもない。

「僕は只の翼族だ。天使なんかじゃない! 分かったらさっさと縄を解いてここから出せ!!」

 今頃ジュリアも心配しているはずだ。
 これ以上迷惑を掛けたくはないし、捕まっている所など恥ずかしくて死んでも見せられない。
 とにかく今はここから出ることを最優先するべきだった。

「天使じゃない? じゃあお前の背中に生えてたもんは、一体なんだって言うんだ?」

「鳥と同じ翼だよ。天使みたいに神秘の力があるわけじゃないし、ただ飛ぶだけのものだよ」

 天使と翼族の違いは、その存在全てだ。天使が精神的な存在であるのに対し、翼族は人間と同じ物質的なものだ。
 翼族の翼は鳥と同じもの。天使のように不思議な魔力があるわけではない。その命も、人と何も変わらない。
 それは翼族はおろかセレスティス大陸の者ならば誰でも知っていること。
 だが、いま目の前にいる赤毛の青年盗賊はそのことを知らないらしい。
 説明に困り、エフィーは一時的に口を閉ざした。

「天使じゃないだぁ? じゃあお前は何なんだ」

「だから翼族の一般市民だってば。お前の思うほどの価値はないと思うよ」

「翼族……? 聞いたことねぇな。嘘言ってんじゃねぇのか?」

 疑り深い赤毛の青年に不快感を抱きつつ、エフィーは懸命に説明しようとした。
 暫く、説明してみたがまるでわかっていないらしく青年は疑問の言葉を繰り返し投げかけてくる。
 いい加減うんざりしてきたエフィーは、何かないかと周りを見回した。
 よくよく見ると、部屋は倉庫のような場所で、色々な物が転がっていた。
 漁に使う網やバケツ、四角く舗装された木箱や樽。ふと気付けば僅かに外から流れ込む空気は潮の香りが濃く漂う。
 恐らくここは、船着場の倉庫か何かだ。
 さすがのジュリアやアジェルも、エフィーが船着場にいるとは思わないだろう。
 今、エフィーを助けられるのは自分自身だけだ。
 エフィーは必死に良策を考えた。
 そして、あることを思いついた。

「なぁ、そんなに天使に会いたいのか?」

 急に大人しくなったエフィーは、不自然な笑顔をラドックに向けた。

「僕は残念ながら高くは売れないけど、もっと高価な奴に会わせてやってもいいよ」

「何?」

 さすがに一転したエフィーの態度に戸惑いを隠せないラドックは、警戒しながらも反射的に聞き返した。

「僕は只の翼ある民だけど、僕の知り合いは本物の天使……いや、神族がいる。多分、僕を売るよりも遥かに儲かるだろうな」

 そこまで言うとエフィーは悪戯っぽく微笑んだ。
 ラドックは困惑したような表情を浮かべる。
 その顔を見て、エフィーは更につけ込む様に続けた。

「本当に残念。僕、そいつのこと嫌いだから教えてあげようと思ったのに」

 いもしない架空の人物を嫌うそぶりまでして、エフィーは演じ続けた。
 ラドックはあからさまに迷っているようだ。
 後一息。エフィーはなおも続けた。

「僕を自由にしてくれたら、そいつのいる所まで案内してやるよ」

 ラドックは無言で暫く考えていた。
 が、数分も立たずに返事が来た。

「いいだろう、ただし、途中で逃げようとしたら容赦はしない」

 交渉は成立した。
 一時的なものであっても、エフィーは一難を避けたようだ。






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