白い翼
港町デューベル。
それはアーシリア大陸の南に位置する最も栄えた商業都市の事である。
荒れ狂う海賊すら近づかないほど治安は整っており、商人や旅人などが多く出入りしている。
活気溢れるデューベルはアーシリア大陸で唯一船を送り出す地でもあった。
もともと高い山に囲まれるような地形の大陸なので、船出が出来る地はデューベル付近の海岸しかないのだ。
そのせいもあって、街はいつもどおり行き交う人々でごった返していた。
表通りは道端に店を開いた旅商人によりさらに狭さを余儀なくされていた。
その中を時々厳つい海の男達が巨大な積荷を運びながら海岸へと走り去っていく。そう、出航が近いのだ。
表通りのむさ苦しさとは打って変わり、ひんやりとした潮とカビの匂いに満ちた裏路地の小さな酒場から大きな声が響き渡った。
「船旅の酒場」と綴られた質素な看板の店は、裏路地にしては人気の酒場だった。
二階は宿屋にもなっており、夜飲み潰れた者達がそのまま停まっていく事もしばしばである。
「嘘じゃねぇ! この眼で見たんだ」
酒場のカウンターには、一人の青年がいた。まだ若い赤毛が特徴的な青年は、大きめのジョッキを片手に、呂律の回らない口で大声をあげて騒いでいた。
幸いまだ昼時のせいか客は青年以外おらず、青年が大声をあげている以外は静かな雰囲気だった。
「夢でも見たんだろ、大体天使なんて物は想像上の生き物だ。てめえがデブカモメとでも見間違えたんだろうよ」
マスターと思われる盗賊顔負けの体躯と顔をもった男は皿を拭きながら青年の話を受け流していた。
青年はジョッキに残った麦酒を一気に飲み干すと、頭と同じ真赤な顔をして怒鳴り散らした。
「だから違ぇつってんだろ! 確かに見たんだよ、ガキが白い翼で空を飛ぶのを!」
「じゃあ何で捕まえてこなかったんだ!? そんな不可思議な生き物、見世物小屋に売ったらさぞか高い値がつくだろうな」
そりゃあ良い、と豪快に笑い飛ばすとマスターのオヤジは青年が飲み終えたジョッキをさっさと片付けてしまう。
「んな事よりおめぇはさっさとくだらねぇ盗賊家業から手を洗って真面目に働く事を考えな。そろそろ自警団が黙っちゃいねぇぜ? それに、テメェに掴まるどんくせぇ馬鹿な奴何ざ、どこ探してもいねぇって」
小馬鹿にしたように鼻で笑うとマスターは洗ったジョッキを棚へとしまった。
「うるせぇ、余計なお世話だ! 今回は上手く行きそうだったんだよ」
「結局は失敗したんだろうが。大方、相手に殴られて昏倒した所で天使さんが迎えにきたんだろ」
マスターの言葉に、赤毛の青年は言葉を詰まらせた。確かに殴られて昏倒したのは事実だ。
人間離れしたエルフの少年に、あっと言う間に仲間は倒され、自分も反撃をする余裕すら無いまま鳩尾に一撃だ。それも武器一つ持たない上、魔術すらも扱わなかったエルフに。
華奢だと思って油断していたが、確かにあれは喧嘩慣れしていた。
いや、喧嘩と言うよりも、戦闘慣れしていたと言った方が正しい。
「くそ! 見てろ、必ずあのガキを見つけて小金にありついてやる」
「くだらねぇことばっかりやってねぇで、いい加減ツケ払えよ。結構な金額になってるぜ? おい、ラドック」
さすがに居づらくなってきたのか、ラドックと呼ばれた青年はそそくさと部屋へと戻っていった。
上の部屋にはまだ、数人の仲間が伸びている。中には骨折した者もいた。打ち所が悪かったのか、受身を取る事が出来なかったのかは分からない。無傷ですんだラドックはまだ幸運な方だ。
軋む階段を登りきると、一番奥にある部屋の扉を押した。
「お、お頭」
部屋へ入るなり、情けない声をあげたのは、手下の中で一番年の低い盗賊少年だった。もともとはただのそこらにいる、いきがっているガキだったのだが、仲間に入れて欲しいと言ってきたので連れて歩いていた訳だが。今回とんでもない目にあって、すっかり意気消沈してしまったようだ。
馬鹿な事にも、この少年はその小さな身体でラドックを庇い、思いっきり投げ飛ばされてしまったのだ。
咄嗟の事に受け身も取る事の出来なかったため、左腕と右足首が変な方向へと曲がってしまった。
医者は絶対安静といって処置をしてくれたが、これではしばらく賊として外へと赴く事が出来ない。
他にも数人このような症状で、無傷な者はほとんどいない。
「クリス、平気か? たくマスターの野郎思いっきり馬鹿にしやがって」
先ほど鼻で笑われた事が相当きているようだ。
唯でさえ、こんなにも無残な敗北は屈辱だと言うのに。
「お頭、あの天使は見間違いじゃねぇよな? 確かに背中から羽が生えてたんだ」
クリスは痛みを堪えて上半身を起こすと、ラドックの座ったイスの方へと身体を向けた。
「あぁ、見間違いなんかじゃねぇよ。確かに飛んだ」
見た事もない生き物を目の当たりにしたのだ。
最初は信じられなかったが、それでも全員が見たのだ。
それは変わる事の無い事実。確かに「天使」は存在したのだ。
「必ず見つけ出して捕まえてやる」
マスターの言ったとおり、見世物小屋に売りつければ相当な金額になるだろう。
ましてや相手は「天使」なのだ。いくらでも使い道は存在する。
「これは俺達に降ってきたチャンスだ。これを逃すてはねぇよな……?」
いかにも嬉しそうに口角をあげると、ラドックは窓から外を仰いだ。
街はいつもと同じく騒々しく賑やかだ。行き交う街人や旅人、商人。と、その中に見知った一行が通った。
前を行くのは深い藍の髪を持つ背の低い少女。服をつかまれ無理矢理引っ張られているのは、茶髪の一見どこにでもいそうな少年だった。
そしてその後をゆっくりとした歩調でついていく紫銀の髪のエルフ。
忘れるはずも無い。「カモ」が来たのだ。
自分達のテリトリーの中に。
「俺達にも運が回ってきたようだぜ?」
先ほどとは違う、余裕のある笑みでラドックは振り返った。
その瞳は何かを思いついた子供のように悪戯に輝いていた。
「何が?」
不信そうにクリスが聞き返す。
ラドックは嬉しそうに万弁の笑みを浮かべると、後でゆっくり話してやるさと言い、部屋から出て行ってしまった。
今一状況が飲み込めないクリスは少し背を伸ばして窓を覗き見た。
そこにはいつもと変わらない、騒がしい街があるだけだった。
「とうとう頭おかしくなったのか……?」
普通ではないお頭に深くため息を吐いた。