新世界
痛みは何故かもう感じない。柔らかな風が頬を優しく撫でていく。穏やか過ぎる環境の中に漂ってるような感覚。それだけが自分の存在を気付かせてくれた。
紙を広げるような、独特の音が聞こえた。
ぼんやりとする意識を覚醒させ、閉じた瞳をゆっくり開けると、朱の空が見渡せた。
鈍く輝く太陽は西の果てに沈みかけ、光を反射する雲は仄かに赤く染まっていた。
はっきりとしない意識を無理矢理起動させるように、目を擦り上半身だけを起き上がらせる。
「ここは……?」
多分先ほどまでいた場所とは少し違う。平原は平原でも、すこし小高い丘の木の根元にいるようだ。
エフィーは先ほどまでの記憶を辿った。
新世界に来て、道が分からなくて、恐らく自称盗賊に遭遇して……。そこまで思い出すと、エフィーは辺りを見回した。だだっ広い草原の中にぽつんと立ちそびえる、年月を重ねた大樹の根元に自分はいた。視界には地平線と空が見渡せ、それ以上のものは望めない。
「起きた?」
背後から聞き知った声が聞こえた。
振り向くと、大樹に寄りかかりながら少し大きめの古ぼけた紙を持ったアジェルが座り込んでいた。
そしてその近くには、今まで何処に隠れていたのか問いだしてやりたい緑色の子竜と、未だ目覚めていないジュリアがいた。穏やかに眠っているようなので、ほっと安心する。
「盗賊は……?」
「逃げたよ。この地図を落としてってね」
アジェルの持っていた紙はどうやら地図らしい。
訳がわからずに、エフィーは何故ココにいるかを尋ねた。
「あそこにいたら、また見つかるかもしれないからね。独断で移動させてもらったよ」
付け足すように荷物はそこにあるから、と木の隣を指差す。
何がなんだか分からず、エフィーは今までも状況を整理してみた。
盗賊は逃げた。
でも何故逃げたのだろうか?圧倒的にこちらが不利だったはずだ。
「何で、盗賊達逃げたんだ? それに……」
どうやって自分達を運んだのだろう? 小柄なジュリア一人なら分からないでもないが、巨大な荷物とエフィーも連れてきたのである。
小柄ではないけれど、華奢な少年に、まとめて運ぶ力があるとは思えない。
「ルイとセイに手伝ってもらったんだ」
疑問を察したようにアジェルが地図から目を離さずに答えた。
ルイとセイとは恐らく封印の森でエフィー達を襲ってきた二頭の銀狼の事だろう。だが、こちらに一緒についてきた記憶は無い。確か、森で別れたはずだ。
「勘違いしてるみたいだけど、ルイとセイは普通の獣じゃないよ。あれは神界から召喚された神獣で、実態は精神世界にあるんだ」
「精神世界?」
「そう、だから呼び出せばいつでも望む場所に来てくれる。まあ、普段は森で番人をしてもらってるけどね」
そこまで言うとようやくアジェルは地図から目を離した。
あの獣が相手をしたのなら、いかに盗賊と言えど最期である。
大体の謎が解けた事に喜びを感じるとともに、場違いな疑問が出てきた。
「一つ聞いていいか? なんでもっと早くにその二匹を呼ばなかったんだ?」
初めから銀狼がいたのなら、こんなにも苦労する事は無かっただろう。ましてやこちらは怪我までしたのだ。
「エフィーとジュリアの実力を見ようかと思ったけど……」
あっさりとした返事をよこす。エルフは小さく溜息を吐くと、残念そうにエフィーを見る。
「全然だったね。エフィーはもう少し剣の扱いを知ったほうが良い。あれじゃあ子供の遊びだよ」
その言葉にエフィーはむっとする。流石にバカにされたような気がして、言い返した。
「悪かったな、遊びで。何だかんだいって、そっちだって獣に頼ってんじゃないか」
だが、アジェルはその言葉に怒りを感じる様子も無く、涼やかな表情でさらりと言い返す。
「あいつらを追い払ったのは俺だよ。ルイとセイは関係無い。それに、どんな危険が待ってるか分からない旅路で、自分の身も守れないようじゃ駄目だって言ってるんだよ」
相変わらず感情のこもらない声で淡々と返す。
確かにエフィーは真剣を握った事など今まで無かったが、ここまで言われると悔しいものがある。それでも、その言葉は正論でもあり、言い返す言葉が見つからない。
――自分の身も守れない……。
グッと拳を固めるとエフィーは突然立ち上がった。
「そこまで言うなら、僕に剣の扱い方を教てよ」
この少年は、自身の身を体術だけで守っていた。でも、いくらなんでもエルフが体術で戦闘するなど聞いた事は無い。エルフが好んで扱う物は、細長い剣か弓と聞いている。それならば、この少年もきっとそう言うものの扱いも知っているはずだ。
エフィーは背から剣を抜き放った。
アジェルは暫く黙ってエフィーを見据えていたが、やがて仕方が無いと言った感じで、地図を折りたたみ静かに立ち上がった。
「良いよ。でも弱音を吐いたら、その時点でやめるからね」
やりかねないと内心思いつつ、ここまできたら引き下がるわけにはいかない。
それにエフィーには弱音をはけない理由が存在した。自分の身も守れない軟弱者が何を言う、と怒られてしまいそうだけれど、今回は自分はおろかジュリアまで傷つけてしまった。しかも、彼女に庇われる形で。
それは何よりも悔しい事で、もう二度とあんな思いをするのは御免だった。
力にそれほど自信は無いけれど、耐久力は人並み以上に自信があった。
強い光を讃えた瞳で、エフィーはアジェルを固く見据えた。
「僕に剣を教えてくれ」
◆◇◆◇◆
金属と金属のぶつかり合うやかましい音で、ジュリアは浅い眠りから目覚めた。酷く身体がだるいのは使い慣れない術を使ったからだろう。術を使うには体力は勿論、精神的にも酷く疲れる。
もう一度寝直そうと寝返りをうち、剣戟の音から遠ざけるように近くにあった物体を頭の上に載せる。
物体は不思議そうに小さく鳴いた。
「ひぃ……、何っ!?」
生暖かい物体を掴み挙げるとはっきりしない視覚で凝視する。
それは緑色の奇妙な生き物、ミストだった。
「なんだ、驚かせないでよね」
安心したようにミストを地面に降ろすと、ジュリアは先ほどから気になっていた音の元凶を探した。
少し離れた場所で、向かい合いながら対峙している二人を見つけると、ジュリアは立ち上がってそちらへと近づいた。
「だから何度言えば分かるの? そんなに大きく振ったら、バランスを崩す」
呆れたように頭を抱えているエルフと、棍棒でも振り回す勢いの少年は剣戟と同じくらいやかましい声で言い争いをしていた。
エフィーは元々正式な剣術など学んだ事はなく、せいぜい軽く短い木の棒を振り回していただけだ。一応念のためといって持ち出した剣を、今回になってやっと握っている。
その姿は危なっかしく、足元はふら付いているわ、剣は宙に漂っているわでどこから見ても初心者だ。
「違うってば、もっとしっかり剣を握って……」
流石のエルフの少年も苛立ちを隠せないようで、こめかみの血管がにじみ出ているような気がした。指導する立場にしては些か言葉がきついのは、この際仕方が無いのだろうけれど、これでは罵りあいにも近い気がする。
「ねぇ、何してるの?」
邪魔をしては悪いと思いつつも、ジュリアは好奇心から二人の間に割って入った。
エフィーは突然後ろから声がした事に驚き、大きく振っていた剣に逆に振られてしまい、無残に尻餅を付いた。
アジェルはその姿を見て溜息をつくと、ジュリアの方へ振り向いた。
「エフィーの剣の稽古。でも、あいつ最高に才能無いと思うよ」
普段よりも少しだけ苛立ちを隠しきれない口調で言い捨てる。
見ている限りでは、意地になって我武者羅に剣を振り回している少年よりも、教えている側のエルフのほうが疲れているようだ。確かに、エフィーが相手では疲れそうな気がするけれども。
それでも、ジュリアはエフィーが剣を振っている姿など見たことが無かったので、少し新鮮な気分だった。
「へぇ、エフィーって貧弱そうだもんね。力も無いし」
止めを刺すかのようにジュリアが追い討ちをかけた。
エフィーはむくれたようにそっぽを向くと、立ち上がって素振りを始めた。
「ねぇ、盗賊達はどうしたの?」
普通なら一番気にすべきことをジュリアは普通の会話と変わらない口調で質問した。
「追い払ったよ」
至極普通に言い返す。
ジュリアは興味が無いように「そう」と相槌を打つと、踏み込みながら素振りを続ける少年を眺めた。
「アジェルは剣を使えるの?」
ジュリアの記憶にあるアジェルの戦い方は体術だった。
それにも関わらず、剣術を教えられることに疑問を抱いたジュリアはしげしげとエルフを観察した。どう見ても武器を持っているようには見えない。隠し武器程度なら持てなくもなさそうだけれど、とても剣を持っているようには見えない。荷物も小さめの革鞄で、小ぶりなナイフくらいしか入らないだろう。
「それなりにはね」
「そっか、エフィーはね、今まで普通の村人だったから、戦いなんて向いてないんだよ。世の中、剣の強さが全てじゃないでしょ? だから、無理に剣術なんて覚えなくても良いのに……」
そんな野蛮な道は歩んで欲しくは無い。素直な気持ちをいえば、エフィーには穏やかなままでいて欲しい。
それがジュリアの想いだった。最低限、身を守る術さえあれば、どうにでも生きていける。
「確かに力が全てじゃ無いけどね……でも力が必要な時もあるよ。それに、力が弱点になることなんて無いからね。また今回みたいに力に対して力をぶつけなくちゃどうしようも無い時があるかもしれない」
覚えておく事に損は無い、と付け足すとアジェルはその場に腰を降ろした。
見た感じでは平気そうだが、あれだけの数の盗賊を相手にしたのだ。疲れていないはずは無い。
それでもエフィーのお稽古に付き合ってあげている。
「現実的ね。でも、意外と優しいんだ」
「は?」
エルフはニンマリと笑みを零すジュリアを不信そうに見つめる。
こんなにも厳しく稽古をつけている自分のどこが優しいのか見当がつかず、アジェルはジュリアから視線を逸らした。
すると、タイミングよくエフィーが素振りを中断して二人のいる方へと歩んできた。
「アジェル、もう一度!」
意気込むようにエフィーは剣を構えると、アジェルの反応を待った。
アジェルは何も言わずに立ち上がると、指を遊ばせるように宙で一回転させた。細い指が何かを掴むような仕草をしたかと思うと、その手には刃の長い、短剣が現れていた。装飾も何も無い、シンプルなもので、白い刃は曇り一つ無い。手で握る場所には滑り止めの布が撒いてあり、いかにも使い慣れた感じがする。
「すごい」
見たことも無い魔法のような動作に、後ろにいたジュリアが感嘆の声を上げた。
先ほどの剣戟の音は二人が打ち合っていた物だったのだろう。今更ながらにジュリアは納得した。
「行くよ!」
普段にない剣幕でエフィーは勢い良くアジェルへと突進していく。
アジェルは微動だにせず、剣を振り上げたエフィーを静かに見据える。
二人の距離が剣の届く範囲になったとき、初めてアジェルはゆっくりと短剣を握っていた左腕を引き、腰を低く落として強く大地を蹴った。エフィーの剣がアジェルに近付いた瞬間、アジェルは力の限りエフィーの剣の根元を狙って短剣を振り上げた。
金属と金属のぶつかり、無機質な火花が散った。
耳に響く音と共に、勢いづいた何かが大地に突き刺さる。
それは少し大きめの柄に竜の装飾があしらわれたエフィーの剣だった。
「力みすぎ」
どう見ても力のうえではエフィーが勝っているはず。
それを意図も簡単に剣を振り払った少年は呆れ顔で短剣を持ち替えた。
「な、っ何で」
流石にここまで来るとショックが大きいらしく、エフィーはがっくりと項垂れた。
これで十回目である。
剣を取り落としたり、転んだりとまともに振るとかいう話ではない。
相手をしているアジェルも呆れて物が言えないようだ。
「もう一度っ」
あれだけ打ちのめされたにも関わらず、エフィーは再び剣を握った。
アジェルは少し考えたように黙り込んだが、先ほどと同じように指を回転させ、持っていた短剣を魔法のように消すと、エフィーに背を向けた。
「……疲れたよ。今日はこれぐらいにしてそろそろ出発しようか」
「何処に?」
行く当ても無かったはずの状況だったので、ジュリアはふと疑問に思ったことを聞いた。
「ここから丁度南に行った所に、デューベルっていう街があるみたいなんだ。この地図があっていればね」
アジェルは荷物の横に置いてあった古ぼけた紙切れを拾うと、ジュリアに手渡した。
ジュリアは地図を受け取ると自分達のいるであろう平原を探した。だが、始めて来た大陸で知らない土地に居るわけだ。当然今の居場所すら分からない。
「現在地が分からないのに、何で行く場所が分かるの?」
当然と言えば当然の質問をしてみる。
「精霊が教えてくれたよ」
「精霊?」
「そ、風の精霊が丁度いてね、二人が眠ってるうちに色々聞いたんだよ」
エルフは精霊と話をするらしい。
ジュリアにとって精霊とは術を使用する時に呼び出すモノだった。
それ以外に接触した事など無かったので、不思議な感じがした。
「へぇ、何でも出来ちゃうのね。でも今から出発したんじゃ夜通しになるわ。今日は野宿して明日出発しましょ?」
エフィーもあの様子では相当疲れているだろう。
ジュリアも内心ヘトヘトだ。今日は少し休みたいのが心情だった。
「そう、じゃあ今日は休んで明日の朝、出発しよう。日の出が分かれば道にも迷わないからね」
同意したように頷くとアジェルは手に持っていた荷物を再び地面に降ろした。
ジュリアはなにやら巨大な荷物をまさぐり出した。
中から巨大なみの虫のような塊を取り出すと、地面に置く。
それは寝袋だった。
「やっぱり地面にごろ寝って女の子のする事じゃないわよね」
嬉しそうにそう言うとジュリアは早速中に潜っていった。
アジェルは呆れたように唯溜息をつくしかなかった。
後ろを振り返るとエフィーが大の字になったまま寝てしまっていた。
どうりで静かだと思った。
あんまりにもきつい事ばかり言ったから、ふて寝でもしてしまったのだろうか?
これから先大変そうだ、と内心思う。
空は夕闇が迫り、淡い白月が出ていた。
時間を考えればまだ寝る時間ではないが、二人とも疲れていたのだろう。
すっかりと夢の中にいるようで、起こすのは少し酷だ。
強制的に夜番をする羽目になったことに苦笑しつつ、少年はゆっくりと腰を降ろした。
どうせ、エルフは眠りが少なくても関係ない。睡眠とはただの暇つぶしでしかないのだから。
アジェルは木に寄りかかると、静かになった二人を交互に見やり、空を仰いだ。
星が瞬く一瞬が、酷く長い物のように思われた。
「本当に、大丈夫かな……」
小さな呟きは深い夜の闇へと消えていった。