新世界


 何もかもが蒼白な世界。何も無い空間に自分は存在していた。辺りを見ても何も無い。白く、空しい空間。
(ここは……)
 手を握っていたはずの少女も傍にいなかった。
 ただあたりは白に満ちていて、濃い霧に覆われたかのように視界が霞む。ふわふわとした浮遊感が身体を包む、エフィーの知らない場所だった。
 このような体験など今まで一度もしたことはない。それなのに恐怖を感じないのは一体何故だろうか。

『貴方はフェイダ?』

 どこからか少女とも少年とも取れる声がした。
(僕はフェイダじゃない)
 そう、フェイダは父の名前。聞き馴染んだ自分の名前は……。

『じゃあ貴方は誰? 何故、その石を持っているの?』

 石、と言われ、エフィーは無造作に額に触れた。
 そこには肌とは違う感触の、硬質なひし形状の青い石が輝いている。

(これは……)

 それは知らない石。物心がついたときには、すでにそこに存在していた。
 一体これは何なのか。考えた事も無かった。それは体の一部で、日常に問題なく溶け込んでいた。村人に疑問を持たれたこともあまりない。そう珍しいものではないだろうと、漠然と思っていた。

『それは大切なもの。世界にとってとても大事な輝石。何故、貴方はそれを持っているの?』

 知らない。
 一体何故これをエフィーが持っているのか。この石が何なのか。自分が何なのか。
 何一つ知らない……。

『その石は神々の物。人の子よ、貴方は一体何を望む? その呪いを受けてまで……』

 言葉はそこまでだった。誰か、別の声が呼んでいた。彼の名前を……。


◆◇◆◇◆


「エフィー!」

 いきなり横っ面を叩かれた。
 ぼんやりとする視界に、自分の頬を殴ったであろう人物が薄っすらと映る。
 時間と共にはっきりとしてきた意識に、痛いという感覚がじわりと滲む。

「いったぁっ……!」

 思い切り叩いたのであろう、ジュリア自身も赤くなった手のひらを抑えている。

「エフィーいつまで寝てんのよ」

 寝ていたという言葉に、エフィーは違和感を覚える。妙な浮遊感こそあったものの、確かに意識はあったはずだ。
 彼女の声で視界を開くまで、誰かと話をしていた。
 少年のような少女のような、高く澄んだ声の人と。
 ジュリアの声ではなかったし、エルフの少年の声よりも随分高く柔らかい雰囲気だった。

「なあ、誰か僕に話し掛けた?」

 周りを見てもジュリア以外に誰も居ない。視界を遮るものもほとんど存在しない、見通しの良い平原だった。どこまでも見渡せるような晴天の下、明るく瑞々しい新緑の地平線が続いている。人の気配は無かった。

「私がさっきからエフィーを呼んでただけだよ」

 それであまりに起きなかったので殴ったのだろう。
 エフィーは自分の置かれている状況をようやく判断した。

「変な夢でも見たんじゃない?」

 夢? 本当にあれは夢だったのだろうか?
 どうも納得のいかない様子でエフィーは辺りを見回した。

「ねぇ、エフィー気づいてる? 私たち転移に成功したんだよ」

「転移って、ここは新世界なのか?」

 勢い良く身を起こすと、自分の居る場所を確認するように深く辺りを見回す。しかし、視界に入るのは風に揺れる草花と、白い雲の流れる蒼穹の空だけ。
 それでも先程までの氷りついた神殿とは違う、清々しい空気を感じる。空に近い場所にある翼族の村とも、緑豊かで花の控えめで静やかな香りに満ちた封印の森とも違う。涼しげで新鮮な空気がエフィーを取り巻いている。
 確かに転移した証拠。
 この場所は温かい。

「本当に来たんだ、新世界に……。なぁ、あいつは?」

 あいつとは、この地に導いてくれたエルフのことだろう。
 ジュリアは思い出したように慌て始めた。

「それがさ、気付いたらいなかったのよ。私、気を失った覚えは無いから、もしかしたら、あの人……」

 自分で言った忠告を自分で破ってしまったのだろうか?
 それともエフィー達が変な所に飛ばされてしまったのだろうか。
 置かれた状況は一つ。
(……迷子になった?)

「えっ? どうすんだよ」

 物知りそうなエルフがいたので安心していたが、よく考えれば自分達は外の世界を何一つ知らないのである。
 ましてやこんなだだっ広い平原に取り残されても、行く場所も方向も分からない。
 二人は昨夜とは違った意味で窮地に立たされたことを改めて実感した。
 慌てふためく少年少女はエルフを探す術すらない。
 名前すら聞いていないのだ。

「本格的にやばいね」

 はあ、とため息を吐き自分の荷物をかき寄せる。
 と、そこにはあのエルフの少年に張り付いていた子竜がいた。
 ジュリアの荷物の中が心地よかったのか、すっかり眠り込んでいる。

「……よくこの状況で寝れるわねこのチビ」

 呆れたと言いたげな表情で子竜を荷物から取り出した。
 するとエフィーはジュリアの巨大な荷物の影に、見慣れない鞄がある事に気付く。

「これって……」

 たしかあの少年が持っていた荷物だ。
 覚えている限りでは、少年がコレを手放した事は無い。
 まさか、荷物だけ飛ばされるという事も無いだろう。

「本当に騒がしいね、あんた達」

 近い空から声がした。

「お化け!?」

 あまりに急だったためか、驚いたジュリアが近くにあった緑色の丸い物体を思いきり声のした方に投げ飛ばした。
 何かに何かが当たる音と同時に、小さな呻き声に似た声が零れる。すこしの時差を挟み、投げ石に使われた憐れな緑色の物体が空しく地面に落ちた。
 安眠を酷い方法で妨害された子竜ミストは目をあけると悲しげに鳴いた。

「……」

 なにか殺気に満ちた沈黙と共に、ジュリアのすぐ前にあった大木から誰かが降りてきた。

「ご挨拶だね。二人とも気持ち良さそうに寝てたから、起こさないであげたっていうのに」

 降りてきたのは案の定、エルフの少年だった。
 顔か赤くなっているところを見ると、ミストはこの少年の顔面にクリーンヒットしたらしい。瞳を閉じ、一番強くぶつかったのであろう額を押さえた少年から、二人は視線を泳がせた。
 ジュリアは苦虫を噛み潰したような表情で、なんと謝るべきか思考をフル回転させる。

「こっこれは……警戒してたのよ、そうっ! 昨日も色々あったりで、ちょっとはまわりに気張らないと……!」

「へぇ……」

 飽くまでも静かな返事が逆に恐ろしい。
 こういう物静かで怒りなどの感情を直接現さないタイプは身近にいなかったので、酷く対応に困る。ジュリアは慌てたようにエフィーを小突いた。
 どうやらフォローしろという事らしい。

「まあ、偶然の事故? でも皆無事で何より……」

 明らかに泳いでいる目線で、苦し間際の言い訳を言ってみる。
 少年はただ、口を硬く閉ざして冷めた視線でエフィー達を見る。
 ひと時の沈黙が晴れ渡る空の下で流れた。  沈黙が痛い……。内心呟きながらも少年の怒りが飛んでくるのを待つ。
 ようやく少年が動いた。
 仕返しの一発が飛んでくるように持ち上げられた手は、少年の形の良い唇を覆った。

「……馬鹿だね。『お化け』なんて、本当にいるとでも思ってるの?」

 冷え切った表情が微かに動いた。手で上手く隠された口元は、見間違え出なければ口角が僅かに持ち上がっていた。
(笑った……?)
 あんなに冷たい表情しかしなかった少年が、少しだけ笑った。
 気のせいではなかった。
 心の底から嬉しそう、という訳では無いがそれでも確かに笑ったのだ。

「あ……あはは、そうよね。ごめんなさい」

 ジュリアは予想外の反応に驚きながらも、照れたように謝った。
 張り詰めていた何かが、砕けたようなそんな感じがした。

「そう言えばさ、自己紹介まだだったよね。僕はエフィー、エフィーガートレンこっちは……」

「ジュリアス・リラよ。ジュリアでいいわ。貴方は?」

「俺は……アジェルだよ。アジェル・シフィーラ」

 ようやく名前を聞くことが出来た。
 これから共に歩いていくのに、いつまでもお前、あいつでは少し寂しいものがある。
 エフィーは嬉しそうに少年アジェルの顔を見つめた。と、そこで思い出したようにジュリアが質問した。

「そう言えば、なんで隠れてたの?」

 アジェルが登っていた木は相当な高さを持ち、木登りが得意でなければ先までは上がれないだろう。

「別に、隠れてたわけじゃないよ。ここは新世界。結局俺もあんた達も何も知らない。だからせめて近くに何か無いか探してたんだ」

 そういうことか、納得したジュリアは、ほ〜と感心したように息をついた。

「で、何かあった?」

「何にも。近くに街らしきものもないし、多分運が悪い所に出たのかもな」

 少し残念そうにジュリアは肩を落とした。
 エフィーは何かを思いついたようにパッと顔を上げると、

「僕が飛んで探してこようか?」

 と、さも名案のように言った。

「それがいいわね、エフィーは結構高く飛べるしね」

 ジュリアも乗り気で頷いた。

「駄目。空を飛ぶって、その翼で? まだ怪我治ってないだろ」

 そう言えばそうだ。銀狼に掻き切られた翼は、応急処置こそしたが決して治った訳では無い。
 残念そうに再びジュリアとエフィーは項垂れた。

「それに、この世界に翼族なんていないかもしれない。未開の地でそんなことをすれば、危険極まりないよ」

「そっか、そうよね。セレスティスでは普通でも『外』では違うのよね。じゃあ、どうすればいいの?」

 もう、いい案は思いつかない。  それでもいつまでもこうしているわけには行かないのだ。
 仕方が無さそうにジュリアはぼんやりと空を見上げた。
 そこには真っ黒な鳥が大きな声を発して自分達の上空を飛びまわっていた。

「失礼するわ。私達まだ干からびてないのよ」

 餌だとでも思われているのだろうか。
 鳥は飛び去る事無く、上空を旋回し続けていた。






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