封印の森


 場の沈黙は時を止めてしまったかのように静寂をもたらした。
 ジュリアもエフィーも珍しく喋る事を忘れ、呆然と物思いにふけっていた。
 時々、小さな子竜、ミストが小さく鳴くだけで、それ以外の音は存在しなかった。

「エフィー?」

 さすがに耐え切れなくなったジュリアが口を開いた。エフィーは俯いていた顔を上げると、隣に座っている少女に視線を移す。

「何?」

「あのさ、もう戻れなくなるって意味分かってる?」

 もう、帰れなくなるって事だよ? と心の中で呟いてみる。
 ジュリアにとって今の生活は失いがたいものだった。多分、今が一番幸せなのだから。確かに、好奇心はある。だけど、平穏と一時の好奇心を天秤に掛けて、どちらかを選ぶ事になるのならば、出す答えは一つだけ。今の幸せを壊したくはない。それが素直な感情。

「分かってる、でも今しかチャンスがない気がするんだ」

 予想していた通りの答えが返ってきて、ジュリアは内心引きずってでも村へと戻りたい心地になる。

「でもさ、戻れなくなるんだよ? それに……さっきのエルフ、本当に信じてもいいのかしら?」

 ジュリアは新世界やこの先の事よりも先ほどの少年を警戒していた。
 何か、ジュリアの知っている嫌な気配がしたのだ。それだけではない、あの凍りつくような淡水の瞳。冷たさの中に垣間見えた感情。何かを憎んでいる目に見えた。自慢ではないが、ジュリアは人を見る力があるほうである。今まで平穏な場所にいたため忘れていたが、あのエルフからは嫌な気配がする。一言で言えば、不審な存在だ。
 エフィーは警戒する事を知らない。だからこそ、エフィーの分もジュリアは余計に怪しんでおかねばならないと思っている。

「さっきの? でも悪い人じゃ無さそうだよ。考えすぎだって」

 些細な気遣いにすっかり信用してしまったらしいエフィーは、あの少年に不信感を持っていないようだ。頼りない言葉に、ジュリアは落胆の色を隠せなかった。

「そうじゃなくて。本当にあの人について行く気なの?」

「僕は、そうしようと思ってる。いつまでもこの大陸にいても、父さんに会えるわけじゃないから」

 確かにそうだ。きっとこのまま戻れば、平凡な翼族の生活を送るだろう。それは幸せなものでもあるし、とても退屈なものでもあった。
 別に彼はスリルのある日々を夢見ている訳ではない。ただ、自身が求めるものを純粋に探したいだけなのだ。
 それは、夢を語る子供と同じ。
 そして子供は、言い聞かせるだけでは、行為を改めない。傍にいて、少しずつ教えなくてはいけないのだ。
 ジュリアは一度大きく溜息を吐くと、少し困ったような顔で上を仰いだ。

「……じゃあ行こうか? 新世界に」

 乗り気でなかったジュリアが、言葉を言い終えると小さく笑った。
 いつもと変わらない明るい笑顔。理由が掴めず、エフィーは驚いたようにジュリアを見た。

「どうせさ、私が何か言ったって行っちゃうでしょう? ならさ、一緒に行くよ」

 せめて誰よりも傍に、共に居たいから。その言葉は声に出す事は出来ないけれど、でも言葉では言えないほど彼には感謝しているし、傍にいたいとそう願う。

「変なの、さっきまで嫌がってたじゃん」

「だってさ、エフィー頑固なんだもん。それに私がいないと何にも出来ないくせに、何でも首突っ込むしさ」

 呆れたとでも言わんばかりに肩をすくめる。

「何だよ、それ……僕だってちゃんと考えて行動してるんだから」

「本当に?」

「本当に」

 真剣な目でエフィーはジュリアを見据えた。
 ジュリアもまた翠の瞳で見つめ返す。
 しばらく睨めっこが続いたかと思うと、二人は急に笑い出した。

「馬鹿みたい、頑固の意地っ張りー」

「そっちこそ」

 明るい笑い声が部屋を満たしていた。
 緊迫した空気はそこにはなく、今は穏やかな感じが出ていた。
 その事に安心したのか二人は急に黙ると、疲れたように背もたれに寄りかかった。

「さすがに疲れたね」

 眠いと言わんばかりにジュリアが目をこすりながら言った。
 エフィーもまんざらではない様子で、目が半分据わっている。

「そうだなぁ、今日は色々あったし。二階が寝室になってるっていってたよな?」

「うん、明日早起きしなくちゃいけないし、今日はもう休みましょう」

 疲れを振り切って立ち上がると、二人は階段を登り、寝室のドアを押した。
 寝室は下の階と同じで、質素ながらも温かい雰囲気があった。
 部屋は幸い四つあり、階段付近の部屋にエフィーが、そのすぐ隣の部屋にジュリアが入っていった。


◆◇◆◇◆


 ベッドとサイドテーブル、小さな箪笥に椅子が一つ。
 部屋にある家具はそれだけだった。
 それでもエルフ独特の装飾の彫刻により、どれも素晴らしい調度品に加工されていた。
 ジュリアはベッドに入る前に少し涼もうと窓際にあった椅子へと腰を降ろした。
 どこからかついてきたミストがちょこんと膝の上に上ってくる。
 キュウ、と相変わらず可愛らしい鳴き声を上げると、欠伸をして丸くなってしまった。
 ジュリアは窓をそっと開けた。夕闇を映した空は何処までも青く暗く、月がなければ道さえ分からないだろう。

「今日は本当に疲れたわ」

 走り続けて筋肉痛になってしまったらしい足を無意味に叩いてみる。

「それに、あの人なんだったのかしら?」

 不思議な色彩を持つ少年。冷たくて恐怖すら感じたほどの。

「でも、あの人、何だか悲しそうだった」

 彼にミストと共に誰か居ないかを尋ねられて、答えた時、一瞬だけ見せた悲しげな表情。それは傷ついた者のみが有するもの。あの時、何が言いたかったのだろう? 誰かを求めていたのだろうか?

「貴方のご主人は、一体何なのよ?」

 早くも寝息を立て始めた子竜の背中を優しく撫でてやる。
 子竜は気持ち良さそうに寝返りを打つとさらに小さく丸くなった。

「明日からどうなるんだろう?」

 不安が無いわけでは無い。それでもエフィーを一人行かせるわけには行かない。恩師であり、ジュリアを家族と認めてくれた翼族の長老に、エフィーを守ると宣言したのだ。それは誓いにも似た思い。決して、それだけは裏切りたくない。何処までも一緒に進み、そして再び彼と共に家へと帰るのだ。そこまで誘導するのが、ジュリアの役目。
 ジュリアは来るべきその時を思い浮かべて、小さく微笑を浮かべた。
 手の掛かる弟だ。だからこそ愛おしく、傍にいたいと願う。
 瞳を閉じて、隣の部屋の少年を思い浮かべた。
 ふわりと、薄い帳を揺らし半開きの窓から心地よい風が吹いてきた。
 そしてその風に混じり、微かな音がジュリアに届く。耳を澄ませると、はっとするような美しい旋律が、途切れがちに聞こえた。

「これは?」

 さっきの少年が奏でていたメロディー。でも少し違った。これは唄。
 透明に澄んだ声。優しくて、悲しい旋律。それが妙に耳に印象的だった。

「明日は明日の風が――……か」

 昔、エフィーが口癖のように言っていた言葉。
 でもそれもまんざらではないのかもしれない。
 ――こんなに綺麗な唄を歌うエルフ族は、きっと悪い人ではない。
 エフィーに感化されてしまったような気分に見舞われて、ジュリアは一人、自嘲気味に微笑んだ。
(大丈夫、きっとなんとかなる)
 気を取り直したようにジュリアはベッドへ転がり込んだ。
 柔らかな枕が疲れた身体に気持ち良かった。
 投げ出されたように枕元に転がったミストは、起きる事無く眠りについていた。
 ジュリアも毛布をかけると、幸せそうに瞳を閉じた。

 そう、全ては明日になってからなのだから……。


◆◇◆◇◆


 村は三年前と何一つ変わらない。悲しいほどの静寂と、光の灯らない無機質な家。
 あの時から、何一つかわってはいない。
 少年はひたすら闇に包まれた村の道を歩んでいた。
 どこかを見ているわけでなく、ただ行くべき道をぼんやりと突き進む。辿り着いた先は、真っ白な神殿だった。
 明かりが灯っている訳では無いのに、仄かに白く輝くそれは、まさに神の住むに相応しい建物だった。
 背高く聳える壁は汚れ一つなく、純粋な乳白色を映し出している。
 柱の至る所に細かな装飾が施され、扉や窓の飾りには鮮やかな宝玉が埋められている。
 まるで夢のお城の様な美しい神殿を、少年はただ悲しそうに眺めていた。

「やっと、帰ってきたよ」

 三年ぶりに、悲しいほどの静寂に包まれてしまった場所へ。
 そっと門に触れると、少年を迎えるかのように音も無く開いた。少年は静かにその中へと踏み入った。

「何も変わらないか……」

 外と変わらず暗い廊下をひたすら突き進んでいく。
 そして階段を一つ上り、長い廊下の最果ての部屋の前で足を止めた。そこは少年の部屋だった。
 少年がドアに触れると、やはり音も立てずに開く。
 部屋は狭くも無く、さほど広くも無かった。
 すっと部屋の入り口の壁にある小窓を覗き見る。そこからは隣の部屋が見渡せた。
 たった一人の自分の欠片を探して。しかしそこから覗ける部屋には人の居る気配は無く、ただ暗く静かな空間のみ存在していた。
 少年は溜息を吐くと、カーテンの揺らめく露台へと移動した。
 部屋の露台からは森が見渡せ、気持ちのいい風が少年の腰まで伸びた紫銀の髪を攫っていく。

「約束はもう無効だね」

 手にしていた紅い飾り石のついた首飾りをそっと月に翳す。それは子竜の首に巻きつけてあったものだった。本来、少年が持つべきものだった一つ。
 淡い光に反射した赤い石は仄かな光を放ち、少年を照らし出した。

「俺は行かなきゃいけないから、もう少しだけ待っていて。いつか必ず、会いに行くからさ」

 そう言って首飾りを自分の首へとかけ、そのまま襟の中に潜り込ませる。飾りとしてではなく、お守りとして大事に扱うように。
 緩やかな風が頬を撫でていく、その心地よさに少年は瞳を閉じた。
 そして小さく唇を開くと、透明な旋律を紡ぎ始めた。
 静かな声は風に乗り、静寂の森のなかを流れていく。
 それは始まりの唄。生きとし生けるものが生を受ける時に、祝福の声を持つ精霊の歌う唄。
 懐かしく、美しい旋律は神と精霊が人に与えた最後の愛情。
 その唄を少年は無心に歌い続けていた。歌う事だけが、今の自分にできることだと言い聞かせて、唯一、皆から好きだと言われた声を風に流す。
 悲しみの森を癒すかのように――。






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