封印の森
陽もすっかり落ちてしまい、悠然とした闇が森を包み隠す頃、道らしい道も発見できずに二人は森を彷徨い続けていた。
不思議な事に、森の中は視界が遮断されてしまうほど暗くは無かった。空に月明かりこそあるが、それだけでは生い茂る木々の葉に遮られ、決して地面まで光は届かないはずだ。けれど、蒼き静寂の森と呼ばれたこの地は、暗闇に染まる事の無い森だった。妖精の悪戯か、はたまた自然の奇跡か、この森は樹木の葉が青白く発光するのだ。そのため、森で松明を使う必要も無く、快適とまではいかないけれど、それなりに昼と変わらず歩く事ができた。
それでも、迷っている事実が変わる訳でもなく、二人は道無き道をひたすら歩き続けた。
そう、二人は知らないのだ。森に存在する呪いを。
エルフが森を人間達から守る為にかけた、彷徨(ほうこう)の呪い。それはエルフの村へ立ち入る事を禁ずる術だった。
どんな方法を使おうとも、村に行き着くためにはエルフの案内が必要なのだ。
しかし二人はそんな事を考えるほど慎重ではない。歩いていればいつか見つかるのだと、淡い希望を抱いていた。
「もう夜ね。このまま薄気味悪い森で一夜を明けるのかしら?」
さすがに疲れが出てきたのか、とぼとぼと歩みを進める少女は溜息混じりに呟いた。
先程から進んでも進んでも同じ光景しか見ないような気がするのは、恐らく気のせいではないだろう。
「おかしいよな、さっきから同じ所を回ってるみたいだ。ほら、この切り株、前にも見たよ」
一度立ち止まり、エフィーは自分の右手にある切り株を指差した。ジュリアは振り返り、エフィーが示すものを見る。そして、微かに驚きの表情を浮かべた。
そこにはつい先刻一休みした時に、ジュリアが腰掛けた切り株に酷似したものがあったのだ。思い起こせば、周りの風景も同じような気がする。根元にはよく解らないキノコが三つ顔を覗かせていて、それも特徴の一つとして脳裏に蘇る。偶然とは思えなかった。
「もしかして私たち、迷ったのかしら」
ジュリアは遅すぎる答えに今更気付く。
内心本当は分かっていたのだけれど、認める事も口にする事も躊躇われていたのだ。口にしてしまえば絶望に追い討ちをかけてしまいそうで、喉を突いて零れかけた言葉は何度も胸にしまいこんできた。けれどとうとうジュリアは、現況を認めた。
「どうしようか? でも流石にこの森で野宿は危険だよな」
先ほどから狼の遠吠えも聞こえてきている。
さらに暗くなれば危険極まりないだろう。かといって良い案も思いつかず、エフィーは切り株に腰を降ろした。ジュリアも同じようにしゃがみ込む。
一時的な沈黙が訪れた。
二人とも必死にその場を抜け出す案を考えているのだ。だが、良い案は思い浮かばなかった。狭いこの場所では、翼族といえど空へと飛び立つ事はできない。もしも雄々しく伸びた枝で翼を痛めてしまえば、翼族の命はそこで終わったも同然だ。飛べない鳥は、生きる事は出来ないのだ――。
その時、がさりと少し離れた草むらの中から、微かに音がした。まるで小動物か何かが、近寄ってくるような、どこか待ちたくなってしまうような音。それは次第にエフィーたちの居る場所へと近づき始めた。
「またさっきのチビ竜かしら?」
シチュエーションが似通っていたので、二人はさほど警戒する事無く、草むらの中から出てくるものを待った。もしもあの子竜が出てきたとしても、今の状況が改善される訳ではない。けれど、心のゆとりが欲しかった。愛らしい子竜が、小動物らしい声で鳴いてくれれば、少しは気が晴れるかもしれない。淡い期待を込めて、徐々に近づく何かを待つ。
刹那。
始めにしていた音とは別の方向から、同じく今度は荒々しい別の何かが草むらを掻き分けて近づいてくる音がした。気のせいか、近づくにつれて、可愛らしいとさえ思えた、初めの近づいてくるものが、激しい動きに変わる。それにあわせて、もう一方の草むらが大きく揺れた。
二つの音は次第に近くなっていき、突然音が消えた。
「何か、二匹になってないか?」
一瞬の静寂とともに、草むらの中から低い唸り声がした。
狼の様な唸り声だが、明らかに威圧感が違った。
ガサッともう一度草が揺れた瞬間に、二人は咄嗟に立ち上がった。鋭い殺気を身に感じたのだ。
草むらが一度、激しく揺れたかと思うと、巨大な獣が少しずつ顔を覗かせた。薄暗い森の中でもはっきりと目に映る、白い獣だった。深雪のように穢れ一つ無い、白く艶やかに光る白銀の毛並みを持つ、獅子に似た獣であった。太い前脚の先に覗くのは、鋭く尖った爪。額の真ん中には白い輝石がぼんやりと光を放ち、口元より覗く牙は白く長い。背丈は、エフィーの背を優に越している。
獣の全身が現れた時には、二人は凍りついたように動けずにいた。
血のような紅い瞳は目が離せないほど神秘に満ちて、また恐ろしいほど残忍な光を讃えていた。姿としては狼に似ているのかもしれないが、しかし決して自然の中に生まれる獣ではない。
美しくも冷たい魔獣。
見るものを惹きつけてやまないその姿。しかしその気配は氷のように冷たく、殺気に満ちていた。
「なっ……」
声すら震える。目が離せなかった。その冷たいまでに美しい紅玉色の瞳から。
油断と恐怖が命取りになると解ってはいたけれど、エフィーはその場から動く事ができなかった。
ゆっくりと、白銀の獣はエフィーに近づく。
後ろからもう一匹が同じように近づいてくるのが、気配から感じ取れた。
(殺される?)
恐怖という念に駆られ、動く事すらできない呪縛。
紅い瞳はすぐそこまで迫っていた。そして瞳よりなお紅い口が開かれる。血に飢えた牙が隙間から覗いた。
「エフィー!」
呆然として動かないエフィーは、強い衝撃を背中に受けた。立ち尽くすエフィーに振り上げられた獣の爪から、エフィーを遠ざける為にジュリアが突き飛ばしたのだ。
その瞬間に背後で空を切り裂く鋭い音がした。勝ち誇ったようにわざとらしい優雅な動きをしていた銀色の獣は、獲物を仕留められなかった事に怒りを露わにしだした。鋭い瞳を細め、獲物を睨みすえる。
「何してるのよ!? あの獣、さっき私たちを追ってきた奴らだわ」
強気な少女は、獣に恐れは抱いているものの、決して顔には出してはいなかった。
いつでも魔術を扱えるようにと、手の先で印を結び構える。ジュリアは獣を睨みつけると、呪文を唱え始めた。
その姿を見た獣は、いっせいにジュリアめがけて突進する。
「危ない!」
獣の鋭い爪がジュリアを捕らえようとした。
だが、それよりも早く、ジュリアの唱えた術が獣の眼前で発動した。
一瞬の紅蓮が広がり、焼け付く様な熱波がエフィーのところまで届く。銀狼は凄まじい、血も凍るような咆哮をあげた。しかしその毛並みは焦げる事無く、銀に輝く色ばかりがエフィーとジュリアの目に映る。
だが脅かすには十分だったらしく、獣は数歩後退った。
その瞬間を見逃さなかったジュリアはエフィーのところまで走ってくると、その手を掴んで有無言わさず走り出した。
背後から獣が追ってくるのが解る。
幸い狭い森の木々を通り抜けながら全速力で走る事はできないらしく、すぐにも掴まる様子は無かった。
しかし、このままではいずれ追いつかれてしまうだろう。
ましてや相手は二匹なのだ。
回り込まれれば逃げ場は無くなる。
「このままじゃ、ちょっとやばいかも!」
また同じ事を繰り返してしまい、少々焦りを感じつつもジュリアはエフィーの手を引いて逃げ続けた。
獣の咆哮は絶える事無く後ろから二人を追ってきていた。
今度ばかりは見逃す気はないらしい。だが、猛獣二匹を相手に覚悟を決めるつもりは、エフィーにもジュリアにもなかった。ただ必死に逃げ切る事だけを考え、無我夢中で走り続ける。
「いったん広い場所に出て、一気に叩くのは!?」
「そんなの無理よ! あいつらあの距離からの術でも全く効いてなかったのよ? 私たちの手に負える相手じゃないわ」
体格から言っても無理な話である。恐らく体当たりされただけで、こちらは動けなくなるだろう。そうなれば結果は目に見えている。戦うなど、無理な話だ。
「ジュリア、前! 行き止まりだ」
なぜこんな時に……? と愚痴りたくなるほど、目の前は切り立った崖の行き止まりだった。左右を見回しても通れそうな道はない。だが、引き返す事はもうできない。どちらにしても、逃げ道は完全に封じられていた。
「そんな……」
崖の手前まで来ると二人は呆然と上を見上げた。
切り立った崖は登れそうもなく、無情に二人を見下していた。
万策尽き、恐る恐る振り返るとそこには、二匹の血に飢えた銀狼が丁度追いついてきたところだった。
先ほどよりも鋭い殺気に満ちたその四つの眼(まなこ)で獲物を捕らえていた。
ジュリアが逃げる方法を探そうと思考を巡らせると、エフィーがジュリアの服の裾を引いた。振り返らずに視線だけ寄越すと、エフィーはジュリアの耳元に口を寄せ、声を抑えて囁く。
「ジュリア、もう一度何か術を使って。相手が怯んだその隙に、空へ逃げるんだ」
言われてジュリアは空を仰いだ。曇一つ無い夕闇が広がる空が遠く見渡せる。幸いな事に、障害となるものは何一つ無い。
上手くいけば逃げる事ができるはず。エフィーが言いたい事に気付き、ジュリアは小さく頷いた。
そして、しっかりと前を見据えてからジュリアは深く息を吸い込むと、いつもよりも低い声で呪文を唱え始めた。
「――我、冥界の魔を支配する者。火を司る精霊よ、我が言の葉に従い、忌むべき敵に浄化の炎を与えよ!」
呪文とともに、ジュリアの翳した掌から、先程よりも巨大な炎の柱が放たれ、疾風の如く銀狼へと走っていく。
一瞬だけ怯む獣を一瞥してから、エフィーは翼を具現化させた。真っ白い、天使にも見紛う翼が背に現れ、エフィーはジュリアの手を引いて空へと舞上がった。
銀狼は予期せぬ事態に怒り狂いったように咆哮をあげた。
だが、それも気にする暇も無く、エフィーは力強く羽ばたき空へと近づく。
あと少し……。
崖の天辺に辿り着けば、逃げ道がきっと開くだろう。
だが、そこまでだった。
二匹いた銀狼のうち、一匹はジュリアの放った炎柱が真正面から直撃したが、掠っただけだったもう一匹の銀狼は驚異的な跳躍力で崖を這い上がってきたのだ。
そしてエフィーとすれ違い様に羽根の根元をその鋭い爪で掻き切った。
「うわぁっ」
まるで炎でも走り去ったかのように熱が駆け抜ける。痛みを感じると同時に、赤い飛沫が飛ぶ。切り裂かれた白い翼は見る見るうちに紅く染まっていく。空の上で、それはは羽ばたく事を放棄する。
「エフィー、大丈夫!?」
事態を飲み込んだジュリアは、急ぎエフィーの翼に癒しの術を施す。
しかし、ジュリアの必死の癒しも空しく、飛ぶ力を失ったそれは、次第に動かなくなり、二人はそのまま地面へと落ちていった。
地面に叩きつけられる時に、ジュリアを庇うように大地から遠ざけたため、エフィーは強く肩を打った。痛みを訴える唸リ声が、エフィーの口から零れる。それでも近寄る危険に、立ち上がる――事はできなかったが、顔を上げて獣の方を見据える。
白く柔らかな翼から血は留まる事無く流れ、いつしか切り裂かれた片羽は深紅に染まっていた。
ジュリアは必死に癒しの術をかけたが、回復よりも銀狼が再び襲ってくる方が早かった。
痛みに歪むエフィーの視界の先で、白い獣がまだ動けるジュリアに向けて突進してくる。赤い赤い口を、狂気の形に歪ませて。獲物を追い詰めた満足感に、獣は微笑んだ。
「……っ!」
名を叫ぼうとして、その瞬間に走り抜けた激痛に言葉は声にならなかった。
「きゃあっ」
ジュリアは迫り来る痛みを予期して、腕で顔面を庇いぎゅっと目を瞑る。
巨大な獣の迫る音。それが妙にゆっくりとしてリアルに感じられた。
そして獣の牙が、ジュリアを捕らえた瞬間、時が凍りついた。
◆◇◆◇◆
「痛くない……?」
ジュリアの腕に突き刺さったかと思われた牙は、切っ先が軽く触れているだけで、それ以上刺さる様子はなかった。
獣は時を止めてしまったかのように静止していた。
ふと気付くと、はっとするような澄んだ笛の音が流れてきていた。望郷の思いを駆り立てられるような、どこか物悲しい旋律の曲。耳を澄ますほど、心に深く染み渡るような音色。静寂に満ちた森を彩るように奏でられる、美しい曲だった。
「これは……?」
酷く懐かしさを感じる曲だった。
初めて聴くはずのその旋律を、エフィーは記憶の片隅に知っているような気がした。
「綺麗な音ね……」
己の状況も忘れ、ジュリアは笛の音に耳を澄ませ、ぽつりと呟いた。
その声に我に返り、エフィーは無理矢理体をねじって起き上がり、噛まれたままのジュリアの腕を引っ張り、獣の口から取り出す。
「無事か?」
血が流れた跡は無い。ジュリアは「大丈夫」と頷き、視線を銀狼に向けた
急に動きを止めた獣に困惑して、二人は訳もわからず銀狼を見やる。
殺気に満ち満ちていた獣は、静かにこちらを見つめていた。戦意など完全に抜けてしまったのか、瞳に宿っていた獰猛な光は消えていた。まるで飾られているだけの置物のように、ただ静かに、存在しているだけ。
何の前触れも無く笛の音が止んだ。
同時に獣は数歩後ろに引いた。
「何で……?」
状況が分からずにエフィーは呆然と獣を見つめ続ける。
だが、急に大人しくなった銀狼は微動だにせず、答えも返してはくれない。
そして何の前触れも無く、静まり返った森の空気を震わせて、二人の知らない声が冷たく響いた。
『――セイリエ……ルイ、セイ』
また笛の音が流れてきたのかと錯覚するほど、洗礼された歌うような声。静かに耳に響く、男性とも女性ともつかない透き通る声が、エフィー達の背後より発せられた。
その声を聞くと、二匹の銀狼はその場に座り込んだ。
先ほどまでの恐怖を覚えるような殺気は失われていた。まるで飼われている猫のように自分達の毛繕いを始める。巨体に似合わず洗練された優雅さを感じさせながら、白銀の獣は完全に沈黙した。
エフィーもジュリアもただ、呆気にとられた。
そんな二人の心知らず、今度はエフィーにも慣れ親しんだ共通語で、二人に向けられた言葉が降ってきた。
「翼族と人間が、森に何の用での侵入か?」
声はちょうど二人の真上、切り立った崖の上辺から聞こえてきた。
二人が振り向き崖の上を仰ぐと、二人を見下ろしている人影がいた。
月光が背になっていて、暗闇に慣れていた目が一瞬眩む。だが、長く尖った耳が特徴的で、それがエルフだと言う事はすぐに分かった。顔は判別できなかったが、月光に映える鮮やかな銀の髪が印象的だった。
手には先ほどの曲を奏でたのであろう銀色の横笛を持っていた。
「君は……?」
「質問するまえに、こっちの答えを言ってもらおうか。返答次第じゃ、また銀狼の餌食だよ」
静かな音でありながら、心を突き刺すほどに冷たい声。温かみを感じさせない言葉。
背格好から少年と思われるエルフは崖を一気に下ると、二人の前に立ちはだかった。
鮮やかな青い月が照らしだしたのは、より鮮やかな紫銀の輝き。月光に照らされて銀に見えた長い髪は、人には無い不思議な色合いをしていた。人形のように整った容貌も相まって、少年には生きている人間には無い研ぎ澄まされた冷たさが存在した。
すべてが作り物めいた容姿の中で、唯一感情を表す氷のような淡水の瞳は、エフィーとジュリアをしっかりと見据えていた。