封印の森


「ねえ、本気なの? ドラゴンの住処かもしれないのよ……」

 エフィーの後ろで、ジュリアは怯えたような声を出した。
 先ほど助けた生き物はどう考えても竜のようで、ならば親はこの森にいるのだろうか。森に竜がいるなどと聞いた事の無い話であるが、森の事情に詳しくないエフィー達は、その可能性を否定できないでいた。
 つまり子竜の飛び去った先、この封印の森には最悪の場合、最も強いと名高いミストドラゴンがいるかもしれないのである。
 そんな危険を冒してまで森に入るか、と言う事で二人は悩んでいた。
 事の始まりはついさっきの出来事。
 怖いという感情はあるが、引き返す事もできない二人は、仕方なく森を目指すことにした。
 森は子竜を助けてから半時もしないうちに見つけられた。
 だが、見た目爽やかな美しさとは裏腹に、竜族が存在するかもしれないという恐れの対象が、二人の足を止めていた。

「でも、行かないと何も始まらないし、今更村にも戻れないだろ」

 父を連れて帰ると宣言してしまったのだから、架空の生き物が怖かったから帰りましたなど、言えるはずも無い。
 結局立ち往生しながら悩む事一時間。二人は未だに森に足を踏み入れてはいなかった。

「でもこんな所で野宿はいくらなんでも危ないわよ。狼とかも出るかもしれないし」

 森の中は危険だろうけれど、森の外は身を隠す場所すらも無い。
 それを考えると、ジュリアの言うとおり野宿は危険だ。
 ああだこうだ言っているうちに、陽は刻々と沈み始めていた。

「こうしてても埒があかないよ。行こう、ジュリア」

「待って、今日は戻りましょうよ。一日くらいフィーレに泊まっても問題ないんじゃないかしら?」

「そんなことしたって、いつかは入らなくちゃいけないんだから、今行こう」

 代わり映えの無い、同じような台詞を繰り返す。
 しかし、そんな他愛の無い会話もようやく終わりを告げる時が来た。けれど、二人の会話に終止符を打ったのは、エフィーでもジュリアでもなかった。
 エフィーたちの風上にひっそりと存在する小高い丘。その天辺で赤い逆光に照らされた巨大な獣が、獲物を見つけた喜びに赤黒い口を開いて舌なめずりをした。獣は今にも二人に襲い掛からんとばかりに二人を見下ろし、威嚇するかのように低い唸り声を発した。
 風の囁きや、巣へ戻る鳥の鳴き声でも無いその音に、エフィーとジュリアは互いの瞳を見つめた。

「今、何か聞こえなかった?」

「ん、確かに唸り声みたいなのが……」

 無駄な口論を中断して、二人は恐る恐る声がした方向へ振り返る。
 しかし、そこまでだった。
 二人は何かの姿を確認するまでも無く、またする暇も無かった。
 後ろから何か巨大な獣が走り降りて来るような音と共に荒い息遣いが近づき、二人は今置かれている状況を判断した。人ではない巨大な何かが迫っている。強く大地を叩き奏でる足音は、尋常なものではなかった。深く考えるまでも無く、それは怪物に他ならない。そんなものに体当たりをされては命がいくつあっても足らないだろう。
 振り返るより先に、本能的に危険を告げる何かに突き動かされて、二人は駆け出していた。

「こっちだ!」

 エフィーの掛け声と共に、薄暗くなりつつある森に二人は無我夢中で走り入ってしまっていた。
 背後からは、おぞましいほど低く恐ろしげな獣の咆哮が響き渡る――。


◆◇◆◇◆


「はあ、はあ、はあ……」

「何だったのか……な………?」

「さぁ。でも、何とか逃げ切れたみたいだ」

 息も切れ切れに、ようやく二人はあの巨大な足音から開放されていた。
 追われ続けてどれほど時間が経っただろうか。道など気にしている間もなく、二人は小回りが効くのをいいことに動き回った。肺が酸欠を訴え悲鳴をあげ、脇腹がはちきれんばかりに痛み出した頃、絶望的に恐ろしげな足音は遠ざかっていった。
 背後から追ってこないと分かると、エフィー達は足を止めた。大きく息を吐き出し、震える足をたたみ、その場に臥せる。ジュリアも木に寄り掛かり、額の汗を拭った。
 獣の唸り声もだんだんと遠のき、やがて元の静けさを取り戻す。
 騒音が完全に去ると、森は不気味なほど静まり返っていた。小鳥のさえずりも、葉の擦れ合う音も聞こえない。風も無く、道端に生えた背の高い草は、微動だにしない。世界から音が消えてしまったかのように、耳に痛いほどの静寂。聞こえるのは、エフィーとジュリアの荒い息遣いだけだ。

「大きい獣か何かみたいだったけど……? まさか、森にあんなのがいるなんて」

 疲れきった様子でジュリアは呟き、そのまま地面に膝をつける。
 竜に怯えていたのは杞憂に過ぎなかった。もしかすると竜も存在するのかもしれないが、今はそれどころではない。狼など子犬に思えてしまうほど巨大な生き物の存在する森に、足を踏み入れてしまった。この森は二人が思っていたよりも穏やかではないらしい。
 フィーレの人間達が、森を手に入れるために強硬手段に出ないのか、理由が分かった気がした。二人を追ってきた猛獣や竜などを味方につけている森の民を、やすやすと降伏させる事などできないだろう。人間は数こそ多いが、エルフは精霊の加護を持ち、魔術を使うと聞く。それに猛獣が加われば、森の防備は完全だ。
 二人は息が整うまでその場で休む事にした。全速力で走ったため、やや呼吸困難に陥り、軽い眩暈が二人を襲う。
 しばらく無言のまま佇み、深呼吸を繰り返し息を整える。大分落ち着いてきたところで、ジュリアが顔を上げた。

「どうしよう……ここ、道じゃないわ。それに暗くなってきた」

 辺りを見回すと、陽は今にも没しそうで、空も夕闇に支配されつつあった。
 ジュリアの言った通り、エフィー達のまわりには道らしきものはなく、木々が乱立している殺伐とした風景だけが広がっていた。

「こんなに木があったら飛んで行く事も出来ないし、歩くしかないよな……」

 脱力感が一気ににじみ出てくる思いで、エフィーは立ち上がった。
 ジュリアはなにやら自分の服の隠しを漁り、平らな円柱の物体を取り出した。

「大変! 磁石が目茶苦茶だわ」

 差し出されたコンパスは北を指す事無く、あてもないままぐるりぐるりと回り続けていた。今更ながらに二人は絶望的な状況に立たされた事を悟った。見ず知らずの森で、地図も無く方角も分からない。そして、追われていたため、右も左も理解しないまま走り続けてきたので、出口がどちらかも分からない。つまり、森から出る事も難しい。かと言って、エルフたちの住まう集落まで辿り着ける自信もない。どちらに進んでも、無謀な話だった。

「ジュリア、こんな所でもたついてると、さっきの怪物に見つかるかもしれない。とにかく今は歩いてエルフの村を探すんだ」

 座り込んでいるジュリアに手を差し伸べる。差し出された手を見つめ、ジュリアはこくりと頷いてその手を掴んだ。

「そうね、ここにいてもしょうがないわ。さっさとエルフを見つけて、村に入れてもらわなくちゃ。こんな薄気味悪い森で野宿なんて、冗談じゃない」

 元気を取り戻したように笑顔でそう言うと、ジュリアは立ち上がった。
 何処を見回しても長い年月をかけて育まれた大樹ばかりで、方向は全くといっていいほど分からない状態だった。
 それでも、一歩を踏み出さない事には何も始まらない。

「とりあえず、どっちに行くか決めないとな」

 エフィーはそこら辺に落ちていた木の棒を拾うと、それを地面に垂直に突き立てた。

「エフィー、まさか……」

 ありえない、という顔をしてジュリアは呆然とその光景を見守った。
 そこまで適当であって欲しくないと、心の中で叫びながら。

「そう、困った時は神頼みって言うから!」

 棒から手を離す。
 不安定な場所にあった棒は少し揺れたかと思うと、そのままぱたりと倒れた。

「どこが神頼みなのよ! もっと真剣に考えなさいよ」

「大丈夫だって。きっと何とかなるから平気平気」

 平然と笑うエフィーに、本当かよと内心毒づくが、彼の言うとおり何かしない事には始まらない。
 何となく、その無邪気な笑顔を見ていると、本当に大丈夫かもしれないと錯覚してしまう自分がいるのも確かで、ジュリアは呆れ果てて笑ってしまった。

「もう、どうなっても知らないからね」

 言うが早いが、彼女はそのまま棒の倒れた方向へと足早に歩き出す。
 エフィーも置いてかれては大変だ、と言わんばかりに慌ててその後を追った。






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