封印の森
呪われた森。
それが人々の封印の森に対する印象だった。人間の侵攻を防ぐ為にエルフのかけた呪い。一度入れば出る事も敵わず、奥に立ち入る事も許されない、永遠に迷い続ける呪い。人はそれを恐れ、森に入ろうとする者は居ない。せいぜい狩人が森の外側で狩をするくらいである。
エフィーたちは封印の森へ向うべく、ひたすら真っ直ぐに続く道を歩いていた。
村を出てから丸一日山脈を越えるために飛び続けたが、翼を持たないジュリアを抱えながらの飛行はエフィーの体力をかなり消費させた。話し合った結果、谷を越えた場所にある、森へと続く道から徒歩で森に行く事にしたのだ。
「村を出てもう二日か……。そろそろ森が見えてきても良いんじゃないかな」
先を歩いていたジュリアがぽつりと言い出した。村からあまり出ることの無かった少年少女は、歩く事にも慣れておらず、長く歩いてきたために少々疲弊していた。
前に村の大人から聞いた話では、封印の森までは徒歩で三日かかるらしい。それを思うと、少し先が思いやられるが、丸一日飛び続けたのだからそれなりの距離は越えたはずである。前向きに考えれば、そろそろ森らしきものが見えてきてもおかしくは無い頃合だった。
「まあ、そろそろ分かれ道には着くかな」
セレスティス大陸の地図を見ながらエフィーは答えた。
今歩いている地点は丁度フィーレの近くで、封印の森とフィーレへの分かれ道があるはずなのである。
あたりは見渡す限りの地平線と、所々に申し訳程度の小さな林を見かける。
しっかりと舗装されているわけではない道は、両端に赤茶色の煉瓦を並べてあり、道が無くなる事だけは防がれているように作られていた。道になっている場所以外は、新緑の草原が広がっている。
とてものどかな光景ではあるけれど、いつまでも同じ風景が続くと段々飽きてくるものだ。
退屈そうに歩いていると、前を行くジュリアが何かを見つけたように一瞬立ち止まった。
「見て、エフィー! あれがそうじゃない?」
ジュリアが指差した先には、古ぼけた道標と長々と続いてきた道の別れが小さく存在していた。
二人は道標の所まで走ってくると、分かれ道と地図を確認した。
「ここまでは順調みたいだ」
無自覚方向音痴の二人にしてみれば、ここまで辿り着けた事が奇跡に思われた。
今までの脱走失敗は、長老の妨害と言うより二人の方向感覚が原因である。村を出て、山脈を越える途中でいつも方角を間違え、時には村に逆戻りしてしまった時もある。
勿論、二人には全く身に覚えが無いのだが。
「えーと、こっちが封印の森かしら?」
西の方角に伸びた板には封印の森と綴られている。そして北の方角を指す板にはフィーレと書かれていた。フィーレはセレスティス大陸中心部に栄える、人間たちの都市だ。一年の半数が雪に包まれ、異様なまでの寒さを誇る場所。はるか昔、人と神との戦争の終焉はこの場所だったと言う。度重なる神族の力の放出により、フィーレの存在する場所は異常なほどに歪んだ空間と成り果て、異常気象を起こすようになったと言われている。同じ大陸内でも、エフィー達の住まう翼族の村は比較的暖かな気候を保ち、四季がバランスよく訪れる。一年中、青々とした葉の落ちない封印の森も、フィーレほど極寒では無いと予測できた。
「フィーレねえ、栄えてるけどちょっと怖いところがあるよね。何ていうか、上下関係ばっかり気にしてて感じが悪いわ」
昔、フィーレの春祭に行った事を思い出しジュリアは呟いた。
エフィーもフィーレにはあまりいい印象は無い。
彼女の言うとおり、上下関係が厳しく、気取り屋か粗野な輩ばかりが多い街。
そして何よりも、毎日犯罪が起こっているのでは? と疑いたくなるような治安の悪さ。貧富の差は目で見るよりも明らかで、通称「スラム」と呼ばれるような、不特定の住民登録さえされていないような人々の徘徊する最悪の場所まである。
そこらに困っている子供がいたとしても、誰も気には止めない。そんな冷たい雰囲気があった。
それは、皆平等と考える翼族の村では考えられない光景だ。
「確かにフィーレはちょっと危ないよな、色んな意味でさ」
エフィーは同意したように頷く。決して侮蔑している訳ではないが、それでも人は第一印象を強く意識するものだ。少なくとも、エフィーとジュリアはフィーレに対して良い感情を持ってはいない。
白く輝く塔だけが覗くフィーレの方角を見つめ、エフィーは瞳を細めた。
その時、近くの草むらがかすかに揺れた。草と草が擦れ合う音に二人は過剰な反応をし、さっと勢い良く振り向いた。
「何!?」
野生の獣かと思い構えていた二人は、草の間より出てきたものの姿に唖然とする。
草むらから出てきたのは、緑色の鱗が光に透けて光る、実に奇妙な生き物だった。
「………」
トカゲを大きくしたような姿形をしていて、人の頭部ほどの大きさだ。青緑色の霧のように揺らいだ大きな瞳が印象的な、二人の知らない生き物である。額と思われる所には、不思議な模様が描かれていた。背にはこうもりの羽を大きくしたような翼が生えている。細長い首元には、銀に光る鎖が輝いていた。
生き物は無垢な瞳でエフィーとジュリアを見上げた。二人もまた、不思議としか形容できない生き物を見つめ返す。
「可愛い」
僅かな沈黙を挟み、ジュリアが唐突に口を開いた。
決して猫や犬のように可愛らしくは無い生き物であるのに、ときめいた様子のジュリアはその生き物に近づく。小さな生き物は構える様子も無く、キュウと小さく鳴いた。
ジュリアは嬉しそうにその生き物の頭を撫でてみようと、そっと手を伸ばした。
だが、それは嫌だったらしく生き物はジュリアが触れようとした指に噛み付いた。
「痛っ」
すぐに手を引っ込めると、奇妙な生き物はそれ以上噛み付こうとはしない。
ただ、小さく鳴くばかりで、何かに怯えているようにも見える。
「大丈夫?」
まだ小さな、それでもちゃっかりと鋭い牙に噛まれ指には、微量の鮮血が伝っていた。それでも傷の具合は大したことはなさそうだ。放って置いても、自然に止血されるだろう。
ジュリアの横をすり抜けて、今度はエフィーがその生き物に近づいた。
緑色の生き物はやはり警戒した素振りは見せない。しかし、更に強く鳴き出したのでエフィーはまじまじと小さな生き物を見つめた。
「あれ? ジュリア……これってもしかしたら、竜の子供かも」
エフィーは前に読んだ事のある文献で、ミストドラゴンという竜がいる事を思い出した。
その挿絵に描かれていた竜と、目の前の小さな生き物は何処か違う様で、それでも酷似していた。
小さな竜はエフィーを見ると小さく鳴き、そのままぐったりと地面に首をつけた。
「竜? まさか、セレスティス大陸には竜なんて居ないはずよ。ましてやこんな小さな竜なんて存在するはず無いわ」
セレスティス大陸に存在する種族は少ない。
動植物もそう多くはいない。人型の一族は人間とエルフそれに翼族程度しか存在しないのである。動物も数えるほどの種しか生息しておらず、それらのほとんどは草食動物だ。竜族という、食物連鎖の最上位に位置する生き物がいるなど、伝説にも聞いた事は無かった。この大陸に、竜の住まう事ができるほどの開けた空間など無いし、もし存在していれば人が存在しなくなっているだろう。
「でも、確かにこれは竜だよ。こいつの瞳を見て、霧みたいに揺らいでるだろ? これはミストドラゴンにしかない特徴なんだ」
「ミストドラゴン? でも子竜がいるってことは親もいるんじゃないの?」
考えてみればおかしな話だ。どんな生き物もある程度は親がついている。
ましてや高い知能と深い愛情をもつ竜族は、成長するまで子供を決して手放さないと言われている。成長するまでは、子竜は親のもとで育つのだから。
「はぐれちゃったのかな? かわいそうに……。それになんだか元気も無いみたいね」
ぐったりしたまま動かない子竜を心配したジュリアは、噛み付かれるのを覚悟して子竜を抱き上げた。
子竜は抵抗する様子も無く、ただ力なくされるがままになる。
噛まれないと分かると、ジュリアは遠慮なく竜の様子を調べてみた。
「これ……!?」
子竜の背中で折りたたまれた翼には、何か鋭い刃物で切りつけられたような傷があった。
それは偶然にできる怪我の範囲を超えている。まるで、飛んでいたところを誰かに切りつけられたようだ。ざっくりと裂かれた肉の奥には白い骨が覗き、未だに傷から血が流れていた。
「大変! この子怪我してる」
焦ったようにジュリアは子竜をエフィーに渡す。エフィーは反射的に渡されたそれを受け取り、傷の具合を見た。
ジュリアは自身の鞄を地面に置くと、中身をまさぐり始める。そして探し当てたようで、呪文の本を鞄から取り出した。
「怪我って……? これ、誰がこんな事を」
哀れな子竜が鳴いていた理由が分かり、エフィーは痛々しく子竜を見た。
傷跡の様子から見て、鋭い刃物で切りつけられた事が予想できた。刃物を扱う種族は、争いを続けてきている人間かエルフだ。
一般的に凶悪な生き物は理由無く殺される。それは力ない人々が身を守るための手段で、悪意は無い。それでも、もしこの子竜が魔物と見られて殺されかけたのなら、あんまりな話だ。たとえ竜でも、まだ子供なのだ。抵抗もできず、命からがら逃げ延びてきたのだろうか。
エフィーが傷口を確認している間に、ジュリアは呪文書を開き、目的のページを捲り、その内容を一度目で追った。そして、声を出さずに復唱すると、小さく神聖語らしき言葉を紡ぎだした。
ジュリアはエフィーと出会う前から、魔術を使う事ができた。火柱を起こしたり、水を降らせたりなど、多彩な魔術を見せてくれたものだ。そして、小さい傷程度なら、癒す事ができる力も兼ねそろえていた。それが世間で言う魔術という物だと知ったのは、最近の事だ。魔術は万人に使えるわけではない。生まれつきの才と、その精神に宿る魔力を同時に持ち合わせていなければ、旋風一つ起こす事はできない。
長い時、平穏だった翼族の村では、魔術そのものが既に使われる事無く、いつしか翼族の人々からその力は失われていった。それ故、エフィーは魔術など使えないし、使い方すらも知らない。
けれどジュリアは村の人間ではない。だからだろうか、彼女は多彩な術を使う事が出来る。
恐らく、今回はその癒しの術を使おうと言うのだろう。
それに気付いたエフィーは子竜をジュリアの方へ向け、そのまま術の発動を待った。
「癒しを司りし光よ、この者に優しき慈悲を与えよ……」
呪文を唱え終えると、ジュリアの手のひらがほのかに光りだした。
その手でそっと傷口をなぞる。子竜は驚いたように体をピクリと反応させたが、やがて穏やかな光の感触に心地よさそうに瞳を閉じた。
不思議な事に触れた指先から光が溢れ、光の触れた傷口は徐々にふさがっていった。
光が消えると、そこには傷一つない、緑色の綺麗な鱗があった。
「効いた……のかな?」
そう言ってジュリアは嬉しそうに笑った。小さな怪我を治したことはあっても、このような大きな怪我を治す術は使った事が無かったようだ。
子竜もぐったりしていた顔を上げ、ジュリアにつられたように鳴いた。
「でも血痕は洗わないと落とせそうもないな」
翼と背中にかけて流れた血は、赤黒く固まり、滑らかな鱗にこびりついている。折角綺麗な鱗なのに、勿体無いと思いながらも、今は近くに小川など無く、洗ってやる事はできそうもない。
「あれ、こいつ誰かに飼われてんのかな。首輪がついてる」
子竜の首のあたりに、明らかに不自然な物を見つけ、エフィーは手を伸ばした。子竜が警戒しない事を確認してから、それを手にとって見る。
首輪に見えた物は、親指の第一関節ほどの大きさの、何処までも透き通る澄んだ深紅の飾り石のついた首飾りだった。紅玉に見えないことも無いけれど、血水晶と呼ばれる石にも見えた。
それは人の手によって作られたものにしては、不思議な魅力のある輝石だった。
「お前の主人の?」
無意味に子竜に話し掛けてみる。
子竜はキュウと鳴くばかりでもちろん答えてはくれない。
誰かのものかもしれないので、子竜の首に首飾りをかけなおしてやる。
嬉しそうな声を上げて、また子竜が鳴く。
「きゃっ」
突然、小さな体に見合わない大きな翼を広げ、子竜は飛び上がった。
しばらくエフィー達の上空を飛び回り、最後に一際大きく鳴くと、そのまま西の空へと飛び去っていった。
突然の事に反応できなかった二人は子竜の去った方をしばらく無言で見つめていた。
「なんだったのかな?」
「さあ、でも子竜の飛んでった方向って森のある方向じゃ無いかな?」
その言葉に二人は顔を見合わせ、
『え―――っっ!』
と、声を合わせて叫んだ。