序章
今逃げれば、不審に思われ即行捕まるだろう。
冷汗を背中に感じながらも、エフィーは冷静さを保とうとしていた。
ジュリアもぎこちない作り笑顔で長老を迎えた。
「じいちゃん、どうかしたの?」
長老と言う立場上、忙しいはずの彼にエフィーを構うような無駄な時間はあるはずが無い。
特に用があるとは思えなかった。もし何かあるとすれば脱走しようとしている事がばれて説教を垂れに来たくらいであろう。
もっとも、それは一番最悪の事態なのだけれど……。
「エフィーに話がある。ジュリア、悪いが少し外してくれ」
いつにない深刻そうな表情でそう言われ、反論できないジュリアは少し不満げな様子でその場を離れた。
彼女はつまらなそうに曲がり角を折れて、暗闇の路地へと消えていった。
残された養父とエフィーは、どちらも口を開かずにお互いを見合った。
ひと時の気まずい沈黙がその場に満ちる。
長老の目はまっすぐにエフィーを捕らえており、それは耐えがたくも逃れられないものだった。
酷く居心地の悪い場に耐えられず、先に言葉を発したのはエフィーだった。
「話って何? 別に僕、今日はまだ怒られるような事してないよ」
いつも悪戯をしては怒られていた子供時代はすでに脱したのだから。
それでも口を突く言い訳じみた言葉は、既に癖になってしまっていたので、ついうっかりと零れてしまう。
だが、そんなふざけた調子のエフィーとは打って変わり、長老はやはりいつにない真剣な態度で言葉を返してきた。
「エフィー、今日でいくつになった?」
「っは? えーと、今日でちょうど十六かな」
てっきり怒られるのかと思っていたので、突拍子も無い質問に唖然とする。
翼族の村では十五で大人と区別される。
十六になったエフィーはもう成人した人と変わらない扱いを受けていた。
「十六か……。お前の父、フェイダが村を出て行ってからもう十五年も経つのか」
どこか懐かしむような声。
エフィーの父、フェイダは元々村の人間ではなかった。
どこからか来たのかは不明だったが、熱心な神学研究者で妙に神族に執着していた。そしてその探究心は長老の孫セリアと結婚した後も収まる事は無く、結局エフィーがまだ赤ん坊の時に家を出て行ったっきり戻っては来なかった。
「父さんがどうかしたの?」
長老の意味深な発言に興味を持ったエフィーは尋ね返した。
「……お前は父に会いたいか?」
「父さんに? ……そりゃ会いたいけど、でもなんで?」
「お前の父はもうこの世界にはいない。いや、この大陸には、と言った方が正しいかもしれん」
「この大陸。どういうことだ?」
長老は一つ溜息をつくと、遠くを見るように空を見上げた。
「お前の父、フェイダはこの村を出てから一度戻ってきたんじゃ。まだセリアも生きていて、お前は赤ん坊の時だ。フェイダが封印の森に行った事は話したな? ……そしてそこで、神族に会ったのじゃ」
「神族に? でも、封印の森はエルフが住んでいるんじゃ……」
セレスティス大陸の西に位置する広大な森、エルフの住まうその地は古くから封印の森と呼ばれていた。
森の緑を欲する人間との諍いが絶えず、最近では一時的な冷戦状態にあると聞いた事はある。
だが、神族がいるという噂は欠片も聞いた事が無かった。
「エルフの長ゲイルに昔会った時だ。古代神をかくまっていると聞いた。そしてそれをフェイダに教えてしまったのじゃ。フェイダは眼の色を変え、封印の森に行ってしまった。だが、一月も経たぬうちに帰ってきた。そして、フェイダはお前にあるものを渡し、そのまま行方を眩ました」
あるもの、それに思い当たるものがあったエフィーは自分の前髪を掻き上げた。前髪を押さえつける逆の手で、額の丁度真ん中を指差す。
「あるものって、これの事?」
そこには深い青色をしたひし形状の輝石があった。
輝石は上から貼り付けた感じでは無く、皮膚と完全に同化していた。まるで、生れ落ちた時より埋め込まれていたかのように。容姿としては十人並みのエフィーの、唯一人とは違うもの。
もちろん、エフィーにはこれが何だか知る由も無かった。物心ついたときには既に体の一部としてあったのだから。
「……それが何かはワシにも分からん。何故、お前にそれを託したのかもな。じゃが、フェイダはそれをとても大切な物と言っておった。……奴が行方不明になったのは帰ってきて半日もしないうちじゃ」
何も知らなかった。父はただ、憧れの神族探しに出かけただけかと思っていた。
でも何故、村を出て行ったのだろうか?
神族に会えたのではないのだろうか?
そもそも、神族に会い神学の真相か何かを求めていたのではなかったのではないのだろうか?
ならば、村を出る理由などあるはずがない。
そして、セレスティス大陸に住まうものは、たとえ翼族であろうとも「外」に出ることは出来ない。
浅瀬と狂ったように渦巻く海に囲まれたこの島国は、出ることも立ち入る事も出来はしない、通称「呪われた大陸」なのだ。
もちろん、何度も外へ出て行こうとした者もいる。
だが、彼らは物言わぬ骸と成り果てて、西の海岸に打ち上げられて戻ってくるのだ。
この大陸から出ることなど、神でも無い限りできるはずが無いのだ。
「父さんは、今何処に? この大陸にはいないってどういうことなんだ」
「……わからん。もしかしたら、封印の森のエルフが何か知っているかもしれん」
それ以上は、と長老は声のトーンを落として言った。
エフィーは戸惑ったように俯いた。なんと言って良いのか、言葉が見つからないのだ。
知らない事を知ってしまったとき、人は驚くか喜ぶかどちらかだと思っていたが、今心にある感情はどちらにも当てはまらない。
ただ、どうしようも無い困惑の思いだけが、重く心にのしかかる。
「エフィー、父を探しに行くのか?」
酷く優しげな声で、長老は呟くように問い掛けた。
予期せぬ長老の言葉に、弾かれたようにエフィーは養父に視線を向けた。その事を告げたつもりは無かった。それでも生まれた時より父のように接してきた養父には、全てお見通しだったのだろう。言葉では表しきれないほどの恩を受けている養父に、嘘をつくつもりは無かった。
観念したように、エフィーは己の真意を告げた。
「僕は、父さんに会いたい。それに神族にも会ってみたい」
「そうか、今日は良い満月じゃ。夜道も明るく照らしてくれよう……」
長老は目を細めて薄く笑った。
そして懐に手を入れると、何か古い手紙のような物を取り出した。
「お前の父から、手紙じゃ。いつか渡せと言われておった」
エフィーは手紙を受け取ると、呆然とそれを見つめた。
古い紙は少し黄ばんでいて、くしゃくしゃに皺が入っていた。
しかし何故かその手紙に温かさを感じた。
「読みなさい」
長老のせかす声で我に返ると、エフィーは手紙をゆっくりと開いた。
そこにはインクの滲んだ文字で、エフィーへのメッセージが綴られていた。
『エフィーへ
お前がこれを読んでいるときには、私はもういないだろう。
もしかしたら、この世界にすらいなくなっているかもしれない。
父らしい事を何も出来ず、本当にすまなかったと思っている。
だが、私は行かなくてはいけないのだ。
神々の世界へと。
封印の森に行きなさい。
彼女が君を導いてくれるだろう。
そして私を探すことだけはしないでくれ。
理由は言えないが、とても危険だ。
決して、私を探してはいけないよ。
それからお前に預けた石。
それは誰にも見せてはいけない。
生涯、お前にはそれを守って欲しい。
自分勝手な物言いだと言う事は十分理解している。
でも、父としてお前に言えるのはこれだけだ。
元気で、生きてくれ』
手紙はそこで終わっていた。
不器用さの窺える、いかにも殴り書きしたような文字は、どこかエフィーのそれに似ていた。
理不尽な文ではあったけれど、それは初めて父から受けたメッセージ。嬉しくないはずは無かった。
「封印の森で一体何が……? それに神々の世界って、父さんはそこにいるのかな」
ぽつりと自分に問い掛けるような言葉。
「エフィー、無理はせずに疲れたら帰ってきなさい」
その言葉を長老が言ってくれるとは思ってもいなかったエフィーは、驚いたように長老を見た。
「行って来なさい、封印の森に。父の事、神族のことを知りたいのならば……」
長老はにっこりと微笑むとそっとエフィーの肩を叩いた。
「じいちゃん、僕行って来るよ。父さんは探すなっ言ってるけど、絶対に探し出して連れ帰るんだ!」
家族と言うものが恋しいと思ったことは無い。実の父と母が居なくとも、エフィーには家族と呼べる者達がいたから。
それでも、一度でも実の父に会ってみたいとはずっと思ってきた。
どれほどの時をかけようとも、必ずエフィーは父を探そうと、この時に決心した。
強い眼差しを長老に向けてから、エフィーは一目散に村の出口へと駆け出していった。
一度も振り返る事無く、真っ直ぐに走り去っていく。
そのまだあどけない後ろ姿が見えなくなるまで、長老はずっと見つめていた。
やがてエフィーが去り、どこからか生暖かい風が吹きぬけた。
と、その時、長老はすぐ後ろに人の気配を感じ取りさっと振り向いた。そこには浮かない顔をしたジュリアが立ち尽くしていた。
「ジュリア、いつからそこに?」
「今よ。話は聞いてないから安心して」
「エフィーはもう行ったぞ。一緒に行くんだろう?」
「ええ、もちろん。でもその前に長老様にお礼を言っておこうと思って」
普段では考えられない程落ち着いた声色で、ジュリアは静かに言葉を紡ぐ。
今生の別れとでも言うように、どこか遠くを見つめる目で、少女は翼族の長を見た。
「助けてくれてありがとう。それにあの事も黙っててくれて……、嬉しかった。本当に感謝してる。エフィーは私が守るから、安心してね」
そう言うとジュリアは明るく笑みを浮かべた。そして、名残惜しそうに長老を見てから、そのままエフィーが去った方へと走り去っていった。
「あの事か……」
残された長老は、二人の孫に小さく別れを告げた。
なんと無く、もう二度と会え無い気がした。それは一瞬だけ過ぎる不安にも似た感覚で、それでもそのことはすぐに脳裏から離れた。
「偉大なる大地の精霊よ、二人の行く末に祝福を……」
満月の月明かりの中、長老は静かにそこに佇んでいた。