序章


 地上界から忘れ去られし記憶。今では神話のみ語り継がれるもの。
 神と人との戦い。そして蒼き宝玉。
 今時、そんな物に興味を持つ子供などいない。
 人は穏やかに暮らし、その幸せを一時でも長く感じる事に忙しいからだ。
 神話として存在する物語など、せいぜい子供を寝かしつける為の子守唄代わりである。
 しかし、周りと少し違う考えを持つ者もいる。
 青い大地の中心に位置するセレスティス大陸の東の果て、巨大な山脈の谷を利用し作られた村。
 翼ある民のみが生息を許される、穏やかな聖域がそこにはあった。
 そしてそこに住まう元気な少年と少女は、村の掟を破り外へと出かけようとしていた。

「ジュリア、早くしろって。じいちゃんにばれちまうだろ?」

「そんな事言ったって、しょうがないじゃない。女の子には色々準備があるんだから」

 翼族の長老の養子であるエフィー・ガートレンと、その幼馴染ジュリアス・リラは記念すべき十回目の脱走を試みていた。
 村の外は切り立った崖であり、有翼の一族でなければ出る事も入る事も敵わないであろう場所である。
 険しい山脈に守られたその地から出る者など今までは無く、せいぜい大陸中枢の巨大な都市フィーレとの貿易で少し遠出をするくらいである。
 翼族は基本的に来るもの拒まず、去るもの追わずの俗世離れした種族だ。大人子供関係なく、彼らはひっそりと穏やかに過ごす事を一番の幸福と感じる。難は出来るだけ避けたいと彼らは思っているので、村から出ることはよほどの事が無い限り皆無だ。
 だが、エフィーはそんな村人とは少し変わったことに興味を持っていた。忘れ去られし神族。その文化や力を追求する神学。幼い頃よりエフィーはそういう哲学的な分野に強く興味を持っていた。
 エフィーの父は神学の研究者であった。そのために家を空ける事も多く、エフィーがまだ幼い頃、神族に会いに行くと言い、そのまま帰っては来なかった。そして病弱だった母、セリアはそれから一年もしないうちに病に倒れ、帰らぬ人となった。
 身寄りの無くなったエフィーを長老は憐れに思い、養子として自分の家に引き取った。
 時は流れ、十五回目の誕生日を迎え、正式に成人した事になったエフィーは、村を出て行くと長老に告げた。
 長老は断固としてそれを許す事は無かった。
 村を出たところで、狭いこのセレスティス大陸では、人間の住む極寒の地フィーレと、古来より長き時を生きてきたエルフの住まう封印の森しかないのである。
 もともと仲の悪いエルフと人間の双方は冷戦状態で、いつ戦争を起こしてもおかしくは無い状態だ。
 そんな危ない所に、むざむざ行かせる訳には、と長老も必死だった。
 生まれて十六年経ったが、未だにエフィーは一人で外へ出かけた事が無い。
 しかし、狭い大陸だからこそ、行方を眩ました父を探すのは容易だと、この時のエフィーは考えていた。

「おまたせ、長老様は今夜の準備で忙しいみたいだから、今日こそばれないで行けるわよ」

 ジュリアは何が入っているのか聞きたくも無いほどの大荷物を持って現れた。
 エフィーとそう歳の変わらない、小柄な少女だった。濃い藍色の髪を肩のあたりで邪魔にならない程度に切りそろえている。猫のように大きな瞳は鮮やかな翡翠色。健康的な白い肌にほんのりと色づいた桃色の頬。やや気が強そうな印象を与える、快活そうな少女だ。
 だが、彼女の本質を知っているエフィーにとって、ジュリアは可愛い女の子と言うよりも裏のありそうな気の強すぎる少女だった。大きな声では言えないが、彼女は猫を被るのも得意で、その豹変振りには傍にいるエフィーも舌を巻くほどだ。もちろん、彼女自身に自覚と言うものは無いのだろうが。簡単に言ってしまえば、かなり癖のある性格なのだ。
 ジュリアは、自身の荷物を重たそうに抱えて、エフィーの傍まできた。とても遠足程度だとはいえ、旅をするには大袈裟な鞣革と麻布で作られた、彼女の半分ほどもある鞄は、無駄な荷物に思える。
 割かし小さな皮の鞄一つのエフィーには、全く理解出来ない巨大な荷物だ。
 あえてそれを見ない振りをして、エフィーはジュリアに向き直った。

「今夜って?」

「あら、忘れたの? 今日は一年に一回の精霊祭じゃない」

 精霊祭は翼族の一族に古くから伝わっている伝統の一つで、自然の象徴である大地の精霊に感謝を捧げるものだ。
 空を制する一族だからこそ、生きる恵みと安らぎを与えてくれる大地を何よりも敬うのである。
 特に今年は適度な雨と、強い陽射しが幸いして豊作であり、祭りの規模も数段格上げした内容になっているらしい。その準備に大人たちは多忙で周りを見ていない。成人した事になっているとはいえ、まだまだ遊びたい盛りの少年少女を顧みる者などいない。成人とは名ばかりで、十六歳のエフィーが村で仕事をするとすれば、祖父の使いっ走りや田畑の世話の手伝いくらいだ。だからこそ、今こうしてふらふらと遊び歩いていても、誰も不思議に思わない。
 その機会をエフィーは見逃してはいなかった。

「ああ、それか。本当、絶好の機会だよな。でも今はとりあえず、この荷物を隠すんだ。荷物が見つかったら元も子も無いしね」

「何で? 今から出発じゃないの?」

「昼は見つかりやすいじゃないか。それなら夜、みんなが精霊祭に夢中になってるときに抜け出せば、見つからないだろ?」

 翼族といっても暗視の力は無い。たとえ空を舞う優美な翼が背に存在していても、それは鳥に羽があるのと同じ事だ。地上に住まう民らしく、特別な力も巨大な魔力も持っているわけではない。
 夜は鳥と同じように安らかな家に戻り、翼を休めのである。
 それに、彼らの翼は物質的なものであり、触れる事も出来れば、傷つくこともある。物語や神話に登場する天使のように、魔力の結晶体である訳ではない。
 ただ望めば翼を背にしまう事は出来る。翼を使用しない時は、そうして邪魔にならないように、また傷つくことが無いようにするのだ。
 翼族にとって夜は、行動するべき時間ではない。長老もエフィー達が夜に出かけるとは思ってもいないだろう。

「それもそうね。じゃあ、荷物隠しに行きましょう」

 納得したジュリアは、そのまま村の入り口へと歩き出した。
 少し遅れてから、つられるようにエフィーも歩き出す。

「ジュリア……まさかその荷物、僕が持つの?」

 ジュリアは恐らく自分の半分ほどもある巨大な荷物を指差すとにっこりと笑った。
 彼女を可愛がる村のおばさんたちは、その笑顔を『可愛い』と褒めてくれるだろう。
 けれど、こういう表情を浮かべる時に限って、ジュリアは邪な考えを持っている。

「もちろん、でも安心してね。今は私が持っててあげるから」

 さらりと言ってのけると、再び歩き出した。
 エフィーは父が早々に見つかる事を強く望んだ。






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