序章
その者は漆黒に塗り潰された暗闇の中にいた。霧がまとわりつくように、幻のような光が時折零れ落ちる。深淵の闇の中で微かに動くその者は、沈黙を破り何も存在しない漆黒に手を翳した。
僅かな間を置いて、その者の指先から光が零れる。
青白く、今にも消えてしまいそうな儚い命に似た、朧な光。
微かな灯りに照らし出されたその者の目前に存在する物は、仄かな光を受けて光る小さな水晶玉。
曇りや傷一つ無い透明な水晶に映るは、青い大地。生と死を繰り返し、永遠の存在しない世界。深い青色をした、命に溢れる地上界。
「歴史は繰り返すもの……。六千の時を越え、あれは再び人の手に渡った。あの時も、始まりは同じ」
水晶の映すものは地上界と呼ばれる青き大地。その世界の中心に存在する大陸の、巨大な白い都市。一年の半分以上が雪に覆われている、過酷な場所。遥か昔、神々に呪いを受け、今もなお戒められ続けている人間の街、フィーレ。
その中枢に位置するものは、神々の時代より存在する巨大な白い塔。宝玉を巡る戦争の後、世界が滅びを向かえた時も、唯一原形を損なわなかった美しい塔だ。
この六千年間、その扉が開かれる事は無かった。否、開けたくても人の手に余るそれは、誰の為にも開かれはしなかった。過去の過ちと共に神が封じた塔。
その扉が今、少しだけ動いた。
「再び地は炎上し、世界は消滅する」
たった一人の神の為に、再び世界は終末を迎える。
それは逃れがたき運命。来るべき先の未来。
六千年前の時と同じ、運命の歯車は全てを引きずり込みながら回り始めた。
「せめて、最後の時を生きる者に幸多からん事を……」
暗闇の奥底に潜む誰かは、少女とも少年ともつかない、透明な声で呟いた。
深く被ったフードで顔は判別できないが、その声はまだ幼い子供の声のように思えた。
実際、朧な光に浮かび上がるその姿は、大人と呼ぶには小柄すぎる。
その者はそっと繊手を伸ばし、何かを悼むように透明な水晶玉に触れた。
その者は祈った。二度目の滅びを感じ、心を悲しみに満たしながら。
「それが、君の予言か?」
暗闇のさらに奥から凛とした声が響いた。
始めの声よりも幾分低く、静かな声だ。
光の届かないほど奥底に隠れているのか、彼の姿は肉眼では見ることが出来ない。
だが、声を聞く限りでは、それがまだ若い男の声だと判断できる。
初めから暗闇に存在したその者は、落ち着き払った様子で暗闇に潜む誰かに言葉を返した。
「予言ではない、これは未来の運命……」
「運命は変わる、必ずね。古代神の残した希望。それが全てを変えるのだから」
暗闇の奥底の誰かは、明朗とした口調ではっきりと言い放つ。その声には迷いや絶望は微塵も感じられなかった。明日を信じる者の、希望に満ち満ちた意志がそこにはあった。
だが、その者は負けじと声を幾分高く張り上げて答える。
「たとえそうだとしても、最後には全て滅びる。六千年前のあの時と同じようにね。古代神が何かしたところで、運命には逆らえない」
決めらた運命の中で、ゆっくりと、けれど確実に息づいている破滅。誰にも運命を変える事は出来ない。
それが許されたのは、世界で唯一の存在。蒼き宝玉だけが、全てを変えることが出来る。
しかし、宝玉は先の戦争で力を失い、永遠ともいえる眠りについた。
もやは誰も運命に抗う事は出来ないだろう。
中途半端に刺激すれば、世界は「時」を待たずに滅びる。
それは神々の世界の住人なら誰もが知りうる事。
その者もまた希望すら持てずに、終焉を待つ存在なのだ。
「それじゃあ、君はそこで見ているがいい。闇に包まれたこの神界でね。世界が変わるその瞬間を……」
声と共に、闇の奥の誰かは気配を消した。
残されたその者は、再び水晶玉を覗き込んだ。
そこには廃退し、滅びを迎えた地上界が映っていた。
そう、来る滅びの日をただ静かに映し出すだけ……。